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ローマ帝国の魔法
森に狼の遠吠えが聞こえる夜のこと。
ルートヴィヒは翌日の戦に備えて休もうとしていたが、ふと外に弟のカールがいるのに気づいて、歩み寄って行った。
「どうした、カール。花など眺めて」
「ルートヴィヒ兄さん」
カールは立ち上がってルートヴィヒを見て、曖昧に笑った。
「綺麗だなと、思いまして」
「そうか……」
その辺の山野にあるようなありふれた紫の花だった。ルートヴィヒは溜息をついた。
弟カールは十八、立派な大人とはいえまだ若い。
偉大なるフランク王である父から、この上ない寵愛を受けていたカールは、おとなしく、柔和な性格に育ったように思う。
自分はこの異母弟と同盟を組んで、戦地へ赴く。
西ヨーロッパ統一を目論む長兄ロタールを阻み、ルートヴィヒとカールの領地を確保するための戦いだった。
「美しいものを眺めるのも一興だが、気を抜いている場合ではないぞ」
「心得ています。ロタール兄さんに立ち向かうのですから。並大抵の覚悟ではいけないでしょう」
ここフランク王国には、領土を兄弟で分割相続させる、という慣習が存在する。
だから末っ子のカールにも領土が与えられて然るべきなのに、長兄のロタールは西ヨーロッパ全土を手に入れたくて仕方がないのだ。かつて存在したあの魔法の国、西ローマ帝国のように。
「……明日に備えて早く休め。カール」
「はい、ルートヴィヒ兄さん」
カールは微笑んだ。
翌日──841年6月25日、ルートヴィヒ・カール軍とロタール軍は、フォントノワの地で衝突した。
馬が土埃を上げながら隊列を組んで戦場を駆け回る。両軍が長い槍を携えて交戦し合う。剣や斧と盾を持った兵士が暴れ回る。弓矢が飛び交う。怒号や悲鳴が鳴り響く。
ルートヴィヒとカールは司令塔として、後方の小高い丘の上でその様子を見ていた。
「戦況はどうですか、ルートヴィヒ兄さん」
「一時は危うかったが、何とかなりそうだ。これなら勝てる──」
その時、ズゥンと地響きがした。ルートヴィヒが驚いて振り返ると、騎兵の集団がなぜか宙を舞っていた。
「──!?」
ドタドタッ、と彼らが地に伏す。そこに敵軍が襲いかかる。優勢だったこちら側の軍が、みるみる蹂躙されていく。
「何だ……」
「魔法です」
カールが呟いた。
「ロタール兄さん、やはり……ローマ帝国に代々引き継がれていたという魔法、『変身』を会得していたんですね……!!」
ルートヴィヒは色を失った。
「何だと!? ローマ帝国は既に滅びているというのに」
「でもほら、ご覧ください。あそこにいる大きな影は……」
ルートヴィヒは眼下の戦場に目を凝らした。
敵軍の戦闘で暴虐の限りを尽くしている、二足歩行の黒い獣は──巨大な狼だ。
狼が、手の一振りで、何頭もの馬と何人もの人間を、放り投げている。それでも向かってくる相手を、その爪で引き裂き、その牙で噛みちぎっている。
「狼人間──!! まさか、本当に!?」
「はい、ルートヴィヒ兄さん。その昔、ローマ帝国を建国した狼人間、ロムルスとレムスの時代から、ローマを統べるものが会得してきた謎の魔法です」
狼への変身。
ローマの統治者には必ずしも血の繋がりなどあったわけでもないのに、何故か代々その能力の保持者が現れていた。
ローマ帝国が東西に分裂したのちは、主に西ローマ帝国の皇帝に能力者が現れたと聞く。
「しかしロタールは、フランク王国の後継ぎの一人に過ぎん。ローマ帝国とはもはや無関係では……」
「いえ。ロタール兄さんに割り当てられた領地は、イタリア半島北部を含んでいますから」
「そ、それだけのことか!?」
「だって現に、狼人間は暴れているではありませんか」
カールは戦場を指さした。
狼人間の勢いはとどまるところを知らない。矢や槍が突き刺さってもものともしない。剣で斬られてもすぐに傷が治ってしまう。
「何たることだ。手の打ちようはないのか!? このままでは我が軍は壊滅状態だ!」
「やはりか。……奥の手に出ましょう。弓兵、用意!」
カールは声を張り上げた。
はっ、と複数人の返事がして、ぎりぎりと弓を絞る音が聞こえてくる。
「カール、何を?」
「トリカブトの毒矢です」
カールは涼しげな顔で言う。
「毒矢!?」
「古代ギリシアの伝説によりますと、狼人間の弱点の一つにトリカブトの毒があるとか。昨夜、狼の声を聞いたので、我が軍には急遽、毒矢を用意させました」
「な、何と……」
「──今だ。射てっ!」
ヒュウッ、と毒矢が弧を描いてロタールに襲いかかる。幾本かがロタールに刺さり、ロタールは苦しげに大声を上げた。
「グオォォォォ!!」
その声は昨晩聞いた遠吠えとそっくりだった。
「ロタール!!」
ルートヴィヒは思わず叫んだ。トリカブトは猛毒だ。当たったら無事では済むまい。
「何を心配なさっているのですか、ルートヴィヒ兄さん」
カールは言った。
「ロタール兄さんは敵です。情けをかける必要がありますか?」
カールがそう言うのも無理はなかった。カールは他の兄弟とは年が離れていて、しかも異母弟だ。そのカールが生まれたばっかりに、ロタールら兄たちは領土の取り分が減ったのだ。カールは兄たちからは憎まれて育った。
ルートヴィヒも甘いことは言っていられない。戦争を始めたからには兄をこの手で殺す可能性もあるのだ。ルートヴィヒは覚悟を決めなければならなかった。
しかし世の中には人情というものもある。
「……」
ルートヴィヒは馬に乗ると、戦場まで駆け下った。カールが弓兵に攻撃中止を指示するのが分かった。
戦線は徐々に変わっていた。こちら側の軍も毒矢を喰らってはいたが、かなり勢いを盛り返しており、反撃に転じている。敵兵はばらばらと後退していく。
「そこまでにしろ」
ルートヴィヒは命じて、ロタールの元まで駆け寄った。
彼は人間の姿に──ルートヴィヒが見知った姿に戻って、丸腰で倒れていた。毒矢が刺さったところからは、血と煙とが噴き出していた。
「ロタール」
ルートヴィヒは馬から降りて、ロタールのそばでしゃがみ込んだ。
「聞こえるか、ロタール」
「うん……」
ロタールはぼーっとした顔で起き上がった。
「起き上がって大丈夫なのか」
「大丈夫……。このくらいの毒では死なないよ」
「強いんだな、狼男とは……」
「うん。強いんだ」
それからロタールはバタンと地に仰向けに転がった。
「おい、本当に平気か!?」
「アーッ」
ロタールは喚いた。
「負けたよ。まさかあのカール坊やが、狼男の弱点を知っていたなんて!」
「その点に関しては俺も驚いている。というかロタール、お前がローマ帝国の魔法を会得していたことに一番驚いている」
「最近できるようになったからね。あー、隠してたのに」
ロタールはひとしきりじたばたすると、むくりと起き上がって、自分に刺さった矢を引っこ抜いた。
「さて、和平交渉といこうか。僕は一旦自陣営に戻るよ」
「俺もそうする」
「じゃ、後で。カール坊やによろしく」
「ああ」
ルートヴィヒは再び馬に乗った。足を引きずってあちらへと戻っていくロタールを一瞥し、カールのもとまで戻る。ことの次第を報告した。
「やはりロタール兄さんを殺さなかったのですね、ルートヴィヒ兄さん」
カールはにこにこして言った。ルートヴィヒは顔をしかめた。
「物騒なことを言うな。これでも兄弟なんだ」
「だったら喧嘩なんてしないでくださいよ」
「お前に言われたくはない」
風が戦場を吹き抜けて、血の匂いをさらってゆく。ルートヴィヒとカールはしばらくその場で、味方が後片付けをするのを見守っていた。
「正直、助かった。カール、よく狼男の弱点を知っていたな」
「ああ。それは、母上に聞いたのです」
「……なるほど。お前の母上に。道理で俺は知らないはずだ……」
「……昨夜、ルートヴィヒ兄さんは僕に声をかけましたね」
「あ、ああ」
「あの時は花というか、トリカブトを見ていたんですよ。あんなところにちょうど狂い咲いているなんて、神のお導きかと思いました」
カールは目を細めた。
「……だとしたら、ローマ帝国の亡霊たる狼人間が、神の御意志により打ち砕かれたことになります。これより、時代は新しくなるのです」
「時代……か」
「ローマ帝国が西ローマ帝国になり、それすらも滅び、その地にフランク王国ができた。そのフランク王国も我々兄弟により分裂しようとしている。……やがてはこの分割統治が、新たなる国作りの基盤となりましょう」
「そうだな……」
「いずれは、僕の国とルートヴィヒ兄さんの国が、このように戦争をする日も訪れるでしょうね」
カールはこともなげに言う。
ルートヴィヒは改めて思い直した。
この末弟は柔和などではない。冷徹さを備えた王となるだろう。
「その日が来ないことを祈るばかりだな」
「どうでしょうね」
ルートヴィヒとカールは笑い合った。
二年後、三兄弟は条約を結び、フランク王国は三つに分かれた。中フランク王国をロタールが、東フランク王国をルートヴィヒが、西フランク王国をカールが、それぞれ治めることに決まった。
その後この三国が激しく争うようになるのは、また別のお話である。
ローマ帝国の魔法である「変身」の継承者が、この後現れたのかどうかは、定かではない。
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