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 山の朝は早い。飲めと、またもや命令口調で渡されたコーヒーで体を温めている間に、出発の準備を済ませた男と共に山小屋を出たのは、日が昇ってからわずか1時間後。  山を降りるといった男の本当の予定はわからないが、美空は黙って甘えた。  鳥のさえずりや川のせせらぎを聞きながら山道を下っていく。山小屋まで登った同じ道のりなのに、昨日より楽に感じるのは下り坂のせいかもしれない。深い睡眠が取れたせいかもしれない。けど一番の理由は。 「……煙草」  ぼそりと一言つぶやき、適当な岩に腰を下ろした圭吾がおもむろに煙草を取り出し口にくわえる。その横に座り、膝の上で頬杖をついた美空はそっと笑いを噛んだ。  これで三度目。昨日はなかった煙草の時間。座れる場所があることも、きっと偶然じゃない。  煙草の煙を横目にしながら木々の向こう、流れる渓流にひらりと枯れ葉が落ちていくさまを見つめた。山はもう冬支度を始めている。赤やオレンジの葉はほんの少しだけしか残っていない。 「紅葉してたら、もっとキレイだよね。残念、見たかったな」 「……地元じゃないのか?」  隣からの視線を受け、美空はうなずいた。 「うん。ここには旅行で来たの。今週の月曜から今日で五日目」  圭吾という男を前にして、嘘をつく必要性は感じなかった。兄や従兄がいたら二人揃って頭にツノを生やし、過去にもいわれた、おまえの警戒心はミジンコ以下か!と吠えられただろう。っていうか、ミジンコってなに。改めて考えると可笑しい。  くすりと笑っていると、圭吾の視線があからさまにじろりと刺さった。 「おまえやっぱ自殺志願だろ」 「だからなにそれ。ほんと違うから」  むっと唇をとがらせる美空を圭吾は胡散臭い眼差しで見やったあと、短くなった煙草を携帯の灰皿に押し付けた。 「普通の旅行なら、行き先は観光地とその周辺を選ぶもんだろ。あるだろうが、近くに立派なのが。山も川も見放題だ」 「まあそうだけど」  ここからバスと電車で1時間半、観光地として有名な場所がある。安全に登山できる環境だけでなく、気軽に山々を楽しめるケーブルカー、川沿いを散策しながら買い物とお風呂が楽しめる温泉街。実のところ、宿泊している旅館はその一角にある。けど目的地は初めからこの地だった。 「意味不明な女」 「不明じゃないから。意味あるから。理由もありますから」 「どんなだよ」  いってみろよとばかりに、笑いを吐き出しながら唇の端を上げた圭吾に美空はムカついた。けっこう本気で。だから思わず、ずっと斜めにかけていた革のショルダーバッグからそれを取り出していた。見せようなんて、少しも思っていなかったのに。 「これ、何年も前から大事にしてる私の宝物。この写真の山がここだって教えてもらってから、いつか来ようって決めてたの」  圭吾の顔に突き付けたのは1枚の紙。それは偶然みた雑誌の1ページ。掲載されていた写真は、空を見上げたアングルで撮られていた。  葉を落とした木々と遥か高き天空。降り注ぐいくつもの煌めき。それだけの世界。それしかない世界。死んでいるようで生きている。静かに厳かに、あるがままにーー。  この写真がこの地であると教えてくれたのは、去年知り合った高校生だった。 「この山をこの目で見て、この足で歩くことが、私にとってなによりも意味あることなの」  なんか文句あるっ?とばかりに紙をぐいぐいと押し付けた。だがしかし、反応がない。 「ちょっと聞いてる?」  紙を横にずらし目をすがめると、当の本人はこちらを見ていなかった。正確には押し付けた写真をだが。 「行くぞ」 「え、ちょっと」  前触れもなく立ち上がり、再び山道を下っていく圭吾を慌てて追いながら、美空はぶちぶちと文句をつけた。 「ちゃんと見たの?せっかく出したのに。特別に見せたのに。宝物なのに」 「ならしまっとけ。四つ折りにされて、所々切れてるシワだらけの宝物とやらをな」  振り返りもしない男の背中を睨みつつ、美空は顔を赤くした。 「し、仕方ないでしょ。ずっと何年も持ってたものだし、この旅行では何度も開いたりしたから。でも宝物は本当だからっ」 「そーかよ」  そっけない返事はここでも投げやりで、美空は頬をふくらませた。ならもういい!とばかりに紙を丁寧に折ってバッグにしまった。  ムカついていたせいか美空の足取りは勇ましく、気づいたときには吊り橋近くのバス停にたどり着いていた。そしてトラブル発生。
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