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吊り橋といった瞬間、はあっ?男の顔はそういっていた。だからいいたくなかったのに。改めて明日またならまだしも、同じ日にまったく同じ場所に戻るなんてアホなのか、バカなのか。男の視線はそういっていた。
「い、いいでしょべつに、何度行っても。そもそも目的はあの山だけだし、時間がある限りあの場所にいたいの。一旦旅館に戻ると時間がなくなるから」
まだ時刻はお昼前。いま直接山に戻れば、夕方まであの空気を堪能できる。けど旅館に一旦戻ってしまえば、今日再び外出することは難しいだろう。
昨晩、山小屋のトイレの中から、偶然友人に会ったから今夜は戻らないと旅館に連絡を入れた際、スマホの向こうから女将の悲鳴が聞こえたのは、うら若い女の一人旅を心配してというよりは、おそらく美空の素性を知っているからだろうと推測している。そして美空自身の事情も。
だからこそ、今日再びの外出は反対される。下手すれば明日も。最悪、最終日を待たずして迎えを呼ばれてしまう可能性もある。それなら確実に残されている今日を無駄なく過ごしたい。
「好きにしろといいたいとこだが、バス、運休してんだろ」
「だからタクシーで行くつもり。帰りも迎えにきてもらえるように頼めば問題ないでしょ」
良い考えだと美空は思っていたのに、なぜか圭吾が舌打ちした。
「問題しかないだろが。タクシーの運転手が全員犯罪者予備軍だというつもりもないし、思ってもないが、ゼロだと断言できないのが今の世の中だ」
美空は目を瞬いた。そして笑う。
「そうかもしれないけど、さすがに考えすぎだよ」
そんなことあるわけない。そう思うも圭吾の瞳は少しも笑っていない。
「ああそうだな。考えすぎだ。タクシーの運転手はみんな優しくて気のいい人間ばかり。バスも運休、シーズンも外れた人気のない山奥で若い女を襲おうなんて考えたこともない。金目のものを奪おうなんて思いもしない。抵抗されたら首を絞めようとか、バレたらまずいから谷へ突き落とすとか。テレビで時折報道されるような犯罪の被害者におまえがなるかもしれないとか。すべて俺の考えすぎだろうな」
そう、確かに圭吾の考えすぎだ。けど、そこまでいわれてしまうと怖くなってしまう。元々世間を知らない美空は、圭吾の言葉に思わず震えた。知らず目は涙目だ。震えを抑えるように両腕を抱きしめると、うつむいた。
「でも、まだ旅館には戻りたくない……」
それが本音。すると、ガチャリと車のドアが開いた。わずか二歩で美空の腕をつかんだ圭吾は、そのまま助手席にその体を放り込んだ。
「な、なにっ」
シートに転がる勢いで乗せられた美空が目を白黒させながら体制を整えたときには、すでに車は走り出していた。
「シートベルト締めろ」
状況がつかみきれず、ぽかんとしている美空に運転席の男が淡々と告げた。
「今日の俺の目的地は、どんな因果かおまえと同じあの山だ。ただし、あの吊り橋とは反対の南側だ。俺にも都合がある」
目を丸くしたまま固まっていた美空がようやくその意味を理解したのは、赤信号で止まった際に未だ締められていない助手席のシートベルトに手を伸ばした男の舌打ちを耳元で聞いたときだった。
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