01-2

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 いまにも壊れそうな船に乗り、息を潜めるようにしていた美空だが、その目だけは、あちらこちらと忙しなく動いていた。 「すごい場所だね。こんな山奥に、まるで湖みたいな川があるなんて。宝石みたいな色……」  怖いほど透明に満ちたエメラルドに光る水の上を滑る船にオールはない。両脇に何メートルもの高さでそびえ立つ岩肌に沿って張られた一本のロープを男がつかむことで、船はゆるやかに進んでいく。  怖くて下を覗き見ることはできないが、水深がかなりあるだろうことは想像がつく。  両脇の岩肌の幅は狭く、船はそのギリギリを通り過ぎていく。 「秘境の地。そう称される場所はこの日本において、そこまで多くはない。そんな場所の一つだ」 「秘境……」 「何年か前まで、この渡り船で観光客相手に商売してたらしいが、ここ数年でかい災害が多かったせいで整備が追いつかず閉鎖したらしい」 「そうなんだ。あ、でもどおりで。歩いてきた道、ずっと平坦だったし、遊歩道の名残りなのかなって思ってたの。腐った柵とかあったし、なんだか忘れ去られているみたいで悲しかった」 「忘れ去られるぐらいでちょうどいいこともある。観光客のために人工的に平坦にされた道は、この山本来の姿じゃない」  つぶやくように言葉を紡いでいた男は、頭上のロープをつかむ手にぐっと力を入れると大きく後ろへ引っ張った。そしてその手を離した男は足元のケースからカメラを取り出した。  美空の心臓がひとつ音をたてた。この先に男の目的地がある。 「観光地ってやつを否定するわけじゃないが、手を出すべきじゃない場所も存在する。そこは、」  反動を得た船は止まることなく先へと進む。やがて、いささか恐怖心を感じるほど狭かった岩肌が徐々に開いていく。男がカメラを構えた。 「神の領域だ」  その先の光景に美空は言葉を失った。  神の領域。まさにその言葉のとおりの光景が目の前に広がっていた。  複雑かつ繊細に、幾重にも重なったエメラルドグリーン。奥にその源であろう小さな滝。そこから放物線を描くようにこの地を取り囲む木々。枯れ葉さえ落とした温度のない無機質さが哀しいほどに対照的で、けれどもひどく美しくて。  まるで泉のように物言わぬ静かな水面。だがその流れは確かに存在している。岩肌から音もなく流れ落ちる水は、絶え間なくその命を繋げている。  この世の刻が止まらぬように、流れゆく水もまた、終わりを持たない。そう、終わりは生きるものだけが持つ定め。 「どうして……」  美空は小さく喉を震わせた。  ああ、昨日も今日も、この男がその眼差しで見据えるその先は、どうしてこんなにも圧倒的なのだろう。すべてに泣きたくなるのだろう。  いや、本当はわかっている。男の眼差しが捉えているその先には、いつでも生と死が存在しているからだ。あの写真のように。  いくつも切られるシャッターの音を聞きながら、美空はこの出会いの意味を考えていた。
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