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「圭吾って、この辺の出身なの?」
「いや」
秘境の地をあとにして、車は再び細い山道を上っていく。さすが秘境だけあって、船が通った川幅と同じぐらいこの道も狭い。
「そう、なんだ。でも詳しいよね」
「何度も来てるからな」
圭吾が東京から来ていることは、車のナンバーを見れば訊くまでもない。だから出身地がこの辺りだと思ったのだが違ったらしい。
「ふうん」
相槌を打ちつつ、視線は目の前から外さない。はっきりいって道幅は車一台ギリギリだ。特にこの車は大きい。対向車はもちろんバイクも自転車も、いや、人一人すらすれ違えるか怪しいところだ。
「写真を撮りに?」
ああ、カーブの先がよく見えない。美空はとっさに心の中で祈りを唱る。
「まあそうだな」
かちりと隣で音がした。それは出会ってから一日もたたずして、すでに聞き慣れた響き。
「いつ、までここに、いるの?」
わずかに下げられた窓から紫煙が流れては消えていく。思わず横を睨みつけそうになった。だってそうでしょ。煙草を吸う暇なんてどこにある。片手運転とか本気でやめて。ハンドルは10時10分の位置って教習所で習ったはずでしょうに。
まあホントのところ知らないけど。教習所を舞台にしたドラマで、そんなシーンがあったような気がしただけ。ともかく、いいから早く両手でつかんで。呪いをかけるようにその手を凝視する。
なにはともかく、この山道早く終わってほしい。行きも驚きの狭さに緊張したが、道の様子を把握してしまった帰りの緊張感は哀しいかな、その比ではない。知らないほうが幸せだったという言葉は、きっといまのような状態を指すのだ。きっとそうだ。
「さあな。撮れた写真次第ってとこだ」
美空はジト目で隣の男を盗み見た。なるほど。趣味のカメラもってふらりと撮影旅行。終わりは特に決めていない。煙草をくわえて車のハンドルを握る男は、かなり自由な生活を送っているらしい。
というかこの男、先ほどからなにやら笑っているように思えて仕方がない。だからちょっと不躾な攻撃をしてしまう。怖いから八つ当たりでもある。
「圭吾って無職でしょ」
「どんな発想だよ。この年で無職とか、ねえな」
勝手な決めつけを鼻先で笑った男は、ちらりと横目で美空を見やる。呆れたような、いや笑っているような、そんな男の瞳と至近距離で絡まり美空は焦った。かなり焦った。
「な、なによ」
いやいやいや、お願いだから前を見て!
「力を抜け」
「は?え?」
「この手の道でスピードを出す車はまずいない。常に対向車が来ることを予測して運転してる。対向車に気づいたら、すぐ止まれるようにな。だからこそ、ぶつかることは稀だ。普通の一般道のほうがよっぽど事故率が高い。ま、運悪くかちあっても、どっちかが避難ゾーンに入れば解決だ。この手の山道ではよくあることだ。心配ないから、もう少し体の力を抜け。こっちが疲れる」
頑張って普通の会話を心がけ、平然とした素振りでいたつもりだったのに、美空の緊張をどうやらわかっていたらしい男。おそらく最初から。
まさか気づかれていたとは夢にも思わず、固まったまま口だけをぱくぱくさせると、圭吾が笑った。小さく可笑しげに。
「だから力を抜け。もうすぐ地上だ」
大きな手がやんわりと美空の頭をなでた。男が浮かべた初めての笑顔とともに。
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