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01-1
男と過ごした三日間。その大半、男の低い声は不機嫌な色で彩られていた。その声は何度も数々の悪態をついたが、思えば最初の一言目、それが一番ひどかった。いま思い出しても笑える。1ヶ月前、私はあの場所にいた。
澄んだ空気、そよぐ風、ときおり聞こえる鳥の羽ばたき。吊り橋から見下ろせる渓流は清らかで、紅葉を終えた山々は静かだ。無音ではないのに、なんて静かなのだろう。
風がなでるように吹き抜けていく。スカートの裾が優しく舞い上がり、ふわりと髪先が揺れた。そっと目を閉じ、かすかに呼吸を震わせれば、この地と同化していく錯覚。このまま透明な空気に溶け入ってしまおうか。そして消えていく。すべて――。瞬間、低い声が割り込んできた。
「おいそこの。飛び降りるなら早くしろ」
いきなりの声は男のものだった。低く響いたそれは、わずかなざらつきとともに澄んだ空気を割って淀ませた。
紅葉も終わりオフシーズンに入るこの季節、観光名所でもないここを訪れる人間はめったにいないと聞いていたのに。事実ここへ通いだしてから四日、誰とも会うことはなかった。
「おい聞こえてんだろ。邪魔だ」
男の声が近づいた。と同時にぎしりと音が鳴る。鳴りつづける。それはこちらの体さえも揺らし、思わず眉が寄った。
いま立っているこの吊り橋は、人一人ぎりぎりすれ違えるぐらいの幅しかなく、どう見積もっても頑丈とはいいがたい。さすがに落ちはしないだろうが、物事に絶対はないと思う程度には不安になる。もう少し静かに歩けないのか。っていうか、いまなんていった。
目の前に広がる大自然からゆっくりと視線を移すと、そこには狭い吊り橋を塞ぐように立っている大柄な男。ついでにいえばむさ苦しい。ぼさぼさな髪、手入れなど皆無と思える無精髭、厚手のウィンドブレーカーはわずかに薄汚れ、ズボンと登山用のブーツには泥がついていた。
「……いきなりなによ。もしかしていま、飛び降りろっていった?」
「ああ、いったな」
片足に体重をかけ、かったるそうに立っている男が不機嫌な顔つきでこちらを睨んできた。
「さっきから邪魔もいいとこだ。飛び降りんのか降りねえのかどっちなんだよ。早く決めろ」
「は?」
邪魔邪魔って、ここはあんたの私有地かっての。
「そんなに邪魔なら、そっちがどこか行ったら?だいたいその意味不明なニ択なんなの?頭おかしいの?」
飛び降りるとか降りないとか、バカじゃないかと思う。すると男はわずかに沈黙したのち、ため息をついた。
「意味不明なのも頭おかしいのもおまえのほうだ。そんな格好で山奥に一人、自殺志願者じゃないならなんだ。襲われてぇのか。ここは街中じゃねえ、山だ」
「知ってるけど」
「あのなあ。ったく、いまどきのギャルはアホ以下なのか。山なめてんだろ」
「以下どころかアホじゃないし、なめてもないし。この格好だって考えぬいてしてるの」
少しでもギャルに見えるように。あ、もしかしてちゃんとギャルに見えているのかな。だとしたら嬉しい。思わず頬がゆるんでしまう。すると不機嫌な男はその目をすがめ、ため息をついた。
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