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01-3
男から提供された寝床は車の後部座席。フルフラットにされたシートの上、毛布から顔だけを出して見上げた窓の向こうは無限の星空。この世の奇跡ともいえる光景を眺めながらの眠りは、この上ない贅沢だった。
けどいま思えば、奇跡はその星空だけではなかった。あの三日間そのものが奇跡だったのだ。最初で最後。そんな一時がいくつもいくつも散りばめられていたのだから。
「おまえ、顔色悪くないか」
朝靄が立ち込める河原で冷たい川の水に手を浸していた美空は、ゆるりと視線を上げた。
「おはよ圭吾。今日は私のほうが早起きだったね」
にこりと笑って振り向けば、昨晩後部座席を美空に開け渡し、運転席で眠っていた男がその目をすがめて立っていた。
「おまえ、」
「今日は写真、撮らないの?」
なにも持っていない男の手に視線を向ける。
「ああ、今朝は靄が深いから。それよりおまえの顔色だ。具合が悪いなら」
「全然平気だよ。顔色はすっぴんだからだと思う。寒いのもあるかも」
遮り気味な会話は自覚あり。なにやら鋭い目つきになった男に肩をすくめながら立ち上がり笑ってみせるも無駄だったらしく、やや強引に連行されたのは車の中。
「寒いなら外ふらふらしてんな。ここで少し待ってろ」
暖房をつけてドアを閉めた男は、どうやら温かい飲み物を作ってくれるらしい。銀色の台の上で火を起こしている。その炎に乗じるように霧が晴れていく。男の手にはココア。それが届けられる前に美空は外に出た。
「火の傍のほうがあったかいから」
睨む男にそう告げて、昨晩と同じ場所に腰を下ろした。早朝の焚き火は夜とは違った風情で美空の心を和ませる。
「今日はどうする予定?」
「今日は」
そこで黙る圭吾に美空は笑った。
「今日はさすがに付いて回らないから安心して」
コーヒーを飲もうとした圭吾の視線がわずかに上がった。
「山、もういいのか」
「うん。圭吾のおかげでたくさん堪能できた。圭吾に会わなかったら、この写真と同じ空気を感じることはできなかったと思う」
常に下げているコサッシュから取り出した例の写真を広げ、そっと指先でなぞった。ありがとう。小さく笑んでから顔を上げた。
「迷惑じゃなかったら、一番近い駅で降ろしてくれる?」
「迷惑とかどの口がいってんだ」
「ふふ、ほんとだよね。圭吾のいうとおり、気持ち悪いぐらい今更だね。でもこれ本当の気持ち。こんなアホなギャルに付き合ってくれてありがとう。なにもお返しできなかったし、これからもできないと思うけど」
圭吾は返事をしなかった。ああとも、べつにとも、なにもいわず。その場を片付けているときも車に乗ったあともずっと。そして車は駅にーー。
「あの、圭吾?」
「具合は悪くないんだな」
「悪くは、ないけど」
「降りろ」
それだけを残し、車から降りてしまった圭吾に美空はぽかんと口をあけた。
車が止まった場所は駅ではなく、なぜか山の中。立ち入り禁止の看板をくぐり抜けていく男が視界に入り、美空は慌てて外に出るとその背を追った。
立ち入り禁止だけあって、ここ連日足を踏み入れていた山とは様子が違っていた。道もない、整地もされていない。何百年もここにあるだろう木々だけが存在している場所。
その背を追うこと数十分。男が立ち止まった。
「上だ」
「え、なに」
足場の悪さに下ばかり見ていた美空は眉を寄せた。いきなり上ってなに。なんなの。怪訝な顔つきで上を見上げた美空は目を見開いた。呼吸も止まった。鼓動すら。なにもかもが止まった気がした。それほどの衝撃。
「……う、そ」
それはあの雑誌の1ページ。美空の目に映るその光景は、ずっと大切にしてきたあの写真と同じものだった。
「どうして……」
「たまたまだ」
そんなバカな。そんなバカげた偶然あるわけない。訊きたいこと、確かめたいことがいくつも頭に浮かぶ。けど言葉が出ない。
「好きなだけ見ればいい」
「……うん」
どうしよう泣きそうだ。
「ね、寝転んでみても、いい?」
「好きにしろ」
傍にあった圭吾の気配が消える。けど近くにいてくれることはわかっていた。美空はその場でゆっくりと大地に横たわった。
そこは、透明に満ちた空と静かに眠る木々だけが存在している世界。それだけの世界。けど、なぜこんなにも美しいのか。このままこの地で、溶け消えてしまいたいーー。
美空の目尻から涙がこぼれた。それは静かに音もなく、生と死が共存しているこの地に吸い込まれていった。
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