01-3

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「こんな偶然あるんだ」  偶然なんて腐るほどあると豪語していた男が、心底ありえないという顔をしていたのが可笑しかった。  美空は自分の部屋に入ると、ごろりと畳の上に転がりながらクスクスと笑った。 「あれ絶対、心の中で舌打ちしてたよね。でも女将さんたちはさすがだったな」  番頭さんと女将はやはりプロだけあり、すぐに客を出迎える姿勢を取り戻した。よけいなことは口にせず、美空にお帰りなさいませと微笑み、お待ちしておりましたと圭吾に頭を下げた。  けどまさか、今夜もあの男と同じ場所で眠ることになるとは思わなかったが。  横になったまま目を閉じれば、体がずしりと重くなる。 「だるい……」  疲れた。足も痛い。吐き気も感じる。ドクドクと波打つ鼓動は限界を示しているのだろうか。あの男から離れた途端に主張を始めるイカレタこの体。  すべてを諦め、感情すら殺し、ひたすら無機質に息だけをしてきた人生の最初で最後の我が儘がこの一人旅。  着てみたかった服をまとって、憧れていたギャルメイクに何時間もかけ、この地を踏んで少しだけ呼吸を思い出した。そして出会った一人の男。 「……桜井、圭吾」  目を閉じ、うつらうつらとしながら男の名をつぶやいてみた。やはりキレイな響き。そうして気づけば眠っていた。  目を開けたときには、すでに闇の中。夕食を断っていたため誰も訪れず、電気も消えたまま。  のろりとスマホを見ればすでに10時。ゆっくりと起き上がり数度瞬く。眠る前に考えていた事柄にひとつ頷くと、部屋についている露天風呂に入った。そして浴衣を身につけた美空はそっと部屋を出た。  すでに時刻は日付を越えようとしている。出てこない可能性のほうが高い。呼び鈴を一度だけ鳴らして反応がなければ立ち去ろうと決めていた。  そう、この出会いはすでに十分に意味を成している。それでもこうして扉の前に立つのは、最後の願いを叶えたい我が儘ゆえだ。  桔梗の間。部屋の名前に間違いはない。チェックインの際、番頭さんが部屋の名を口にしながら男を案内していたのをこの目で見た。  呼び鈴を押す指先がわずかに震えた。怖いからじゃない。これは緊張と期待だ。ピンポンと音を一つ鳴らしたあと、ぎゅっとそのまま拳を握る。1分2分そして。 「こんな夜中になんのつもりだ」  扉を開けた圭吾が睨むようにして美空を見下ろしていた。
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