01-3

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「……意味、わかってんのか」  男の声はひどく低かった。吸うことを忘れ去られた煙草の灰がまた少し散った。そのことにイラついたのか、男は乱雑な仕草でテーブルの上にあった灰皿に煙草を押し付けると、その残骸を睨んだまま動かない。 「わかってんのかって訊いてんだ」  まるで怒っているような声色。 「うん。わかりすぎるほどわかってる」 「……浴衣を着ろ」  数秒の沈黙のあとの命令。それは拒絶を意味していた。男はこちらを見ることすらしない。美空は目を伏せた。そっか。拒絶されたんだ。 「そうだよね。こんな体、その気にならないよね。痩せっぽっちだし、キレイじゃないことぐらいわかってたんだけど。ごめんね、おかしなこといいだして」  震えそうな声をなんとか堪えて、足元に落ちている浴衣に手を伸ばした。けど美空は固まった。その手が大きな手に掴まれたからだ。  反応ができずにいると、その手にぐっと力が込められた。縁側から次の間へと引っ張られた美空の体は、意図も簡単に部屋の角へと追いやられてしまった。  壁に手をつき、上から見下ろしてくる男を見上げれば、ひどく近い場所でその瞳とぶつかった。鋭く野生的で、男の色香をまとったけぶるそれは美しくも珍しい琥珀の輝き。ずっと気づかなかったその色彩。 「圭吾……?」 「キレイじゃないなんて誰がいった。その気がないなんて誰がいった」  美空は困惑する。 「でも浴衣、着ろって」 「安売りすんなって意味だ」  琥珀の瞳が美空を睨みつけた。美空は首を振った。 「安売りなんてしてない。圭吾にしかできないっていったよね?他の人じゃ無理なの。圭吾しか無理。圭吾以外の人には触られたくもない」  男が静かに奥歯を食いしばったような気がした。きっとそれは勘違いじゃない。美空は意を決して掴まれていないほうの手をそろりと伸ばすと、男の頬にそっとふれた。無精髭はもうなかった。より精悍になった男を指先でなぞる。ぴくりと男が震えた。 「お願い圭吾」  キスできそうなほどの近さで懇願すれば、男の喉がわずかにひきつる。そして吐き出された声は低くかすれていた。 「途中でいやだっていっても、やめられねえぞ」  そんな警告を発する男の唇の上で、美空はささやいた。 「そんなこといわない。この体に痕が残るまで、やめないで」  深く、強く、我を忘れるほどにーー。  男が低く唸った。それはタガが外れた合図。噛み付くように重ねられた唇はひどく熱く、美空を抱え上げた大きな手も、寝室のベッドへ共に沈み込む鍛えられた体もすべてが熱を帯びていた。やがてその熱は、どちらのものなのかわからぬほど混ざりあっていく。  華奢な肩を、鎖骨を、柔らかな胸のふくらみを辿っていく男の指先は優しくも淫らでいやらしく、それを追うように滑る唇の熱さに美空はあえぎ、初めての快楽にその背をのけぞらせた。経験がない美空にとって、すべてが痛いほどに苦しくて、その逃し方がわからない。 「力を抜け」  耳元でささやかれるも、体はいうことをきかない。無意識に彷徨わせた手を握られて、その指を絡めるようにシーツの上で繋ぎ止められる。 「俺を見ろ」  ゆるゆると視線を合わせて男の琥珀の瞳を見つめれば、わずかに呼吸が落ち着いた。 「いい子だ。そのままでいろ」  額に優しい口づけが落とされそして、火傷しそうな熱が深い場所を貫いた。それは圧倒的な支配力。力強くも隠秘。しなやかに動く男は、溺れてしまいそうなほどキレイで。 「……けい、ご」  再び乱れる呼吸と共にすがるようにその名を呼べば、攫われるように囲われる。汗ばむ肌、耳元に落ちる熱を含んだ吐息。ベッドは軋み続け、美空は体の奥から迫り上がる熱に声をあげた。  幾度も幾度もあえぎ、涙をこぼし、駆け上がるように昇り詰めた最奥でなにかがショートした瞬間、美空の胸元に男が牙を剥く。耐えきれずにあげた悲鳴は、どこまでも快楽に濡れていた。  一瞬意識が飛んだ。耳鳴りがする。心臓の音がひどくうるさい。はくはくとあえぐことしかできない美空の唇にキスが落とされる。 「平気か……?」  そう問いかける男の息も荒く乱れていた。けど、それ以上に乱れている美空はすぐに返事ができない。ドクドクと鼓動を絶え間なく刻んでいる心臓の音を聞きながら、美空は薄っすらと目を開けると小さく唇を震わせた。 「圭吾。私、いま、生きてる……?」 「ああ、生きてる。自覚あるだろ」 「うん……」  美空の目尻から涙が一つこぼれた。その涙を指先でぬぐった男がそこに唇を寄せた。 「この涙も熱い肌も唇も、吐き出される吐息までもが脈を打っているのは、おまえが生きているからだ」  男の唇がゆっくりとそれらをなぞっていき、やがて左のふくらみに辿り着く。 「ここが一番うるさいな」  「うん」  わずかに体を離した男の眼差しが美空を見下ろす。 「もう死んでもいいとか思うんじゃねえぞ」 「うん」 「おまえは生きてる。それを忘れるな」 「うん」  また一つ涙がこぼれた。 「ありがと、圭吾」  我が儘を叶えてくれて。  きっとこれも最初で最後の繋がり。圭吾でよかった。圭吾に会えてよかった。もう二度と会うことはできなくても。  最後の涙は男の唇によって溶け消えた。
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