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 旅館の朝は早い。  部屋に戻った美空がのんびりと旅仕舞いをしている間に、ほとんどの客は捌けてしまったようだ。ロビーは閑散としていた。会計はすべて事前に済まされているため、なにかをする必要もない。 「お世話になりました」 「またお越しください」  微笑む女将に美空も笑顔を返した。 「お嬢様、タクシーが来ましたよ」  呼びにきてくれた番頭さんに美空はうなずく。 「新幹線の時間は確か午後でしたか。まだ余裕はありますが、早めに着いておいたほうがいいでしょう。まあ万が一乗り遅れても、東京行きは何本もありますから」  旅慣れない美空を気遣う番頭さんにお礼をいって、玄関前に付けられているタクシーに乗り込んだ。  ゆっくりと車寄せを進むタクシーの中から、旅館を振り返る。端に駐車場が見えたが、あの黒いクルマがあるかどうかはわからなかった。きっともう出発してしまっただろう。男の朝はいつも早かったから。  美空は斜めにかけているサコッシュの中から小さな紙を取り出した。それは男の名刺。なにかあったら連絡しろといった男の。  フォトグラファー  桜井圭吾  手の中の名刺をじっと見つめ、美空は笑った。 「趣味とかいっちゃってプロとかなんなの。仕事じゃない」  そこで美空ははっとした。もしかして。サコッシュの中で大事に折り畳まれていたそれを広げる。写真だけの掲載で、惜しいことにカメラマンの名は記載されていなかったそれ。これを撮った人は、どんな人なのだろうと何度も想像した。 「そっか、圭吾が撮ったんだ」  美空はゆるりと破顔した。  たったの三日間。けどすべてが奇跡だった。すべてが一瞬であったけれども、きっと忘れない。死ぬ瞬間まで忘れない。この写真の地だけでなく、生きている証までくれたあの男を。 「ありがと、圭吾」  何度いっても足りない。もっといえばよかった。もっともっと。すべてを胸に抱いて、美空は憧れ続けたこの地をあとにした。  乗り遅れることなく乗車した新幹線は快適で、東京駅までは眠ってすごした。そうして到着したホームで真っ先に視界に入ったのは、仁王立ちしている一人の男。美空は苦笑した。 「ここで待ってなくてもいいのに。そもそもお迎えもいらないのに。タクシーで帰れたよ?」 「俺としては旅館まで迎えに行きたかったぐらいだ。むしろ一人旅からして反対だった」  憮然と言い放つ男は不機嫌だ。旅行の計画を発表したときから不機嫌だったが。 「相変わらず過保護なんだから。こうして無事に帰ってきたんだからいいでしょ。しつこいよ?」 「わかってる」  ため息をひとつ。そして長身を折り曲げて美空の顔を覗き込んだ。 「具合悪くないか?」 「うん。少し疲れてるだけ」 「そこは侮るな。おまえの場合、大事になる」 「わかってるよ」  それは耳にタコ。10年以上いわれていれば、無意識に気をつけるようになるものだ。この三日間のことは例外中の例外、口が裂けてもいえないが。 「……満足できたか?」  控えめな問いにかけに美空は笑んだ。小さい頃から美空の味方でいてくれる人。この旅行が実現できたのも最終的にはこの人のおかげ。心配症の母の反対はもちろんのこと専門家の従兄も反対派。美空に甘めの父さえも反対はしないが頷きもしなかった。けどこの人が皆を説得してくれた。いまもそういったように、しっかり反対派でいながらも美空の気持ちを大事にしてくれたのだ。  美空の大好きな人。美空は甘えるようにその人を見上げた。 「うん。ありがとお兄ちゃん。全部お兄ちゃんのおかげだよ」 「わかってるじゃないか」  ははと笑い、美空の頭をなでる兄、透の手は大きく温かい。 「とりあえず何事もなくてよかったよ。今日は家でゆっくり休め。母さんが美空の好物を作って待ってる。明日からはまた病院だからな」 「……うん」  わかってる。またあの白い無機質な場所へ閉じ込められるのだ。 「行くか」  トランク型のキャリーケースを美空の手から引き取った透が歩き出す。その背を追いながら美空は少しだけ振り返った。なにもないとわかっているけど。あの男がいるわけもないけど。  東京の人口は世界的にもトップランク。加えて美空の行動範囲は狭い。神様が決めた運命でもなければ再び会える可能性はゼロに近い。いやゼロだ。  それでも後ろ髪ひかれるように視線を彷徨わせてしまうのは、過ごした時間が心の奥底に深く残ったままでいるからなのだろう。 「美空?」  立ち止まり振り返っている透に美空はごめんと謝ると、今度こそ三日間から立ち去った。  ねえ圭吾。圭吾は私を思い出すことはある?  私はいまも思い出す。何度も何度もーー。
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