01-4

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01-4

 あの三日間を終えたその夜遅く、美空は熱を出し、翌日を待たずして病院に連行された。  それから1ヶ月、外に出ることは叶わず、繰り返し無機質な白い箱の中から空を見上げる毎日。けど心は落ち着いている。ここ数日続いている穏やかな天候と同じように。  今日も抜けるような冬晴れ。けど、どこか儚く思うのは色のない季節のせいか、それとも己の運命と向き合っているせいなのか。  わずかに残っていた秋の風も消え失せ、冷えた空気は透明度を増している。雲一つない空。あの男が好きだといった冬晴れ。  四本の指で作ったフレームから視線をそらすと、美空は彼らに視線を向けた。  最初に入ってきたのは父である藤宮宗一と母の真理子、そして兄の透。その後ろに白衣を着た医師三人。一人は主治医である杉山医師。60歳を超える免疫疾患のスペシャリストだ。もう一人は心臓外科医である門田医師。3年ほど前から美空の担当医となってくれている。そしてその後ろに控えるのは若き青年医師、藤宮智弘。門田率いる心臓外科チームの一員である彼は藤宮宗一の弟を父に持ち、透と美空とは従兄という間柄でもある。 「美空ちゃん。前もって伝えていたように、今日は君の気持ちを話してもらいたい」  ベッド横にある椅子に座った杉山が穏やかに微笑んだ。その横に門田と智弘が立ち、家族三人はそれを後ろで見守っている。  個室はこういうときも便利だ。部屋を移動することなく大事な話をすることができる。 「私や門田先生の見解は2ヶ月前に話したとおりだ。私たち医師は必ず全力を尽くすと約束する。そしてご両親とお兄さんは君の生命力を信じている。けど一番大切なのは君の気持ちだ。わかるね?」  幼い頃から美空を診てきた杉山が穏やかに問う。美空は小さくうなずくと、わずかにうつむいた。いま心は静かだ。いや、元より2ヶ月前からこの心は静かだった。というより、なにも感じなかったというほうが正しい。  長い年月を経て、美空は自分の人生というものに諦めがついていたからだ。  病が発症したのは小学校に入学したその夏、肌の炎症がきっかけだった。近所の皮膚科にて紫外線に少し弱いのだろう診断されたが、それは悪化の道を辿り、他にもあれこれ症状が現れ母に連れられ病院巡りをすること1年。父の知人から紹介された杉山医師によってこの病名が下された。  全身性エリテマトーデス、通称SLE。  免疫系が自身の体を攻撃するこの病は、まさにその名の通り全身のあらゆる場所、臓器にさまざまな症状を引き起こす自己免疫疾患である。  一昔前は発症と同時に余命も宣告されるほどの重い病であったらしいが、医学の発展と薬の開発のおかげで、いまはそこまで恐れるものではないという。それでも難病と指定されるに値する困難な病には違いなく、ときに命を脅かされるほど深刻な状態になる者もいる。  その症状は個々様々で、美空の症状も治療と年齢を重ねるごとに変化していった。入退院を繰り返しながら改善されていくものと悪化していくもの。そして最悪なことに、悪化した箇所は心臓だった。  呼吸困難で倒れたのは苦労して通った高校の卒業式の夜。謝恩会と称して集まった会場で倒れた美空は、友人たちによって担ぎ込まれた病院で生死の境を彷徨った。  それ以来、美空の心臓は専門医の診療が必要となり、様々なことを諦めてきた人生に拍車がかかった。生きながらにして死んでいるような毎日。頑張っても我慢してもなにも変わらない。ひたすら死に向かって息をするだけの日々。そして21歳の夏の終わり、2ヶ月前にとうとう宣告を受けた。  なにもしなければ永遠に籠の鳥。そしてその鳥の寿命は長くない。  心臓外科医の門田いわく、投薬での治療には限界があり、延命のためには手術が必要不可欠。だがリスクはある。はっきりいわれなかったが、それは低い割合ではないだろう。免疫疾患を持たない人でさえ術後の合併症で亡くなる場合もあるのだから。  もう自分の人生に、そして命に執着のなかった美空はその決断を人任せにして、ずっと憧れていた地へ兄の力を借りて飛び出した。最後の我が儘だからと無理を押し倒して。  美空ちゃん。と口を開いたのは門田だ。 「2ヶ月前、君は皆の判断に任せるといったが、僕たちは君の本当の気持ちが知りたいんだ。だからこそ待った。旅行も本来なら許可できないところを容認した。僕も杉山先生も、そして智弘先生も、手術するにあたって一番の最優先事項は美空ちゃんの気持ちだと考えているからだよ」 「はい」  わかっていますと頷き、美空は顔を上げると三人の医師と家族を見た。心はやはり静かだ。けど二ヶ月前とは違う。なにも感じなかったあのときとは違う。あの三日間が美空を変えた。 「私、手術を受けます。ううん、受けたい」  初めてそういった。そしてこの病に侵されてから初めて口にする言葉をこぼした。 「私、諦めたくない。自分の人生をまだ諦めたくないの。いいよね?」  二人の医師がもちろんだと力強く頷き、一人の医師が決意を固めるように拳を握る。その後ろで母が手で口を覆いながらぎゅっと目を閉じて、父がその肩を強く抱く。兄はじっとたった一人の妹を見つめていた。その瞳を潤ませて。  美空は微笑んだ。  ありがとうお兄ちゃん。ありがとう、お父さんお母さん。ありがとう先生。ありがとう智くん。  そして誰よりもありがとうをあの人に。貴方が生きている証をくれたから、もっと生きたくなった。諦めたくなくなった。  美空はもう一度、晴れた冬の空を見上げた。 ーー圭吾。  もう二度と貴方に会えなくても、もう二度とこの地を踏むことがないとしても、瞼でシャッターを切ったこの冬空が最初で最後の写真になってしまっても、そう、この決断に後悔はない。  美空はそっと心臓に手を当てた。もうあの証は消えてしまった。けど記憶には残っている。ずっと残り続けるだろう。最後その一瞬までーー。  その十日後、美空の手術は行われた。
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