02-1

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02-1

   囚われるのは一瞬。  恋に落ちるとは、そういうことだ。    紅葉のピークを終えた山奥を訪れる人間はさほどいない。仕事の撮影で向かったそんな場所に珍しくも若い女が一人。その出で立ちにこめかみをひきつらせた。  ざっくりしたセーターを肩から半分落とし、風が吹けば飛んでいきそうなミニスカート。どこから見ても山をなめている。大方、遊びにきた男とケンカでもして一人おいていかれたのだろう。 「アホだな」  自分には関係ないと足を踏み出そうとしたとき風が吹いた。女の長い髪が風にあおられ、その横顔があらわになる。瞬間ドキリとした。いや、ギクリのほうが正解か。古い吊り橋の上、遠くを見つめる女の眼差しは静かで、なにかを諦めていた。 「おい、飛び降りるのか降りねえのかどっちなんだよ」  もっと上手い言い方があったはずと後悔したのはすぐのこと。たぶん焦ったのだ。いまにも消えてしまいそうな女を前にして。  女の静かすぎるその瞳。その風情に似合わぬアンバランスなコントラスト。なんともバカらしい感傷だ。  アホ以下なギャルの眼差しから目が離せないのは、カメラマンとしての単なる興味。ただそれだけ。そうであったはずだった。  茜色の空を撮影したのち帰らない女を睨めば、おいていったら飛び降りるとぬかした。鼻で笑って足蹴にするには最初の印象が強すぎた。  山小屋まで連れて行ったのは面倒を避けるため。覚束ない足取りを気にしたのも、ウィンドブレーカーを貸したのも心配したからじゃない。女を押し倒したとき、マジでやってやろうかと思った。けどそれ以上に女の無防備さに腹が立っていたのは事実。  数日前から山を歩き回り、体は疲れているはずなのに眠れなかったのはなぜか。明け方まで女の眠りを見つめていたのはなぜか。髪先をそっとなでた己の指先に意味はない。なかったはずだ。  そして二日目。自分はまさか絆されでもしたのかと頭を振ったのは、一度や二度じゃない。あの雑誌の切り抜きを宝物だと囁いた女に心臓がきしんだ。息苦しく思ったのは驚きからか、それとも喜びだったのか。  成り行きで車に乗せ、ファミレスごときに目を輝かせる女の身の上はいったいどんなものなのか。庶民でないことは確かだ。少食は嘘じゃないとばかりに、ほんの少しのパンケーキすら食い切れなかったどこぞのお嬢様に、自分はいったいなにをとち狂ったのか。まだ戻りたくないとうつむく無防備で警戒心ゼロな女を車に放り込んだ。  思わず舌打ちがもれる。 「あらあら、舌打ちとかやあねえ。桜井ちゃんって、じつはバカだったのね。なんかもう、ざんねーん」 「はあ?」  圭吾は指先に挟んだ煙草を睨んでいた目つきそのままに、カウンターの向こうで人差し指をチチチチと横に振っている大柄な男に目をすわらせた。 「急になんだ。ふざけんじゃねえぞこら」  馴染みのバーは今夜も常連で埋め尽くされている。ざわめく薄暗い店内で吸うことを忘れていた煙草を不機嫌にくわえれば、心は女とのたまう髭面の店主シノブからやれやれとばかりに圭吾はため息をつかれた。 「ふざけたくもなるわよ。いつまでもウジウジと不機嫌な顔で、なんかもうイラっとくるわあ」 「なにがだよ」 「だからあ、何回舌打ちしてんのって話よ。自分のダメっぷりにがっかりしてんのはわかるけど、詰めが甘い桜井ちゃんが悪いんでしょーが」 「なんの話だ」  頬杖をついてじろりとシノブを見れば、カウンターの向こうの髭面が圭吾の顔に近づくと、にやりと笑った。 「例の山で出会ったその子に惚れちゃってるって話」  圭吾は数秒停止したのち、じくりと目をすがめた。 「なにいってんだ茂男。寝ぼけてんのか。つーか近えんだよタコ」  強面の大きな顔を圭吾が手で払いのけると、シノブはふんと鼻息を荒くする。 「ここでは茂男じゃなくてシノブっていってるでしょっ。何度いったらわかるのかしらっ。それに寝ぼけてなんてないわよ。っていうか、寝ぼけてんのは桜井ちゃんのほうでしょ。もしかして自覚なしなのかしら」  圭吾は返事をせずき煙草を灰皿に押し付けると、目の前にあるカルヴァドス のグラスをつかむ。投げやりな仕草で半分ほど一気に流し込めば、喉の奥が熱くしびれた。 「だって、やったんでしょ、その子とセックス」  圭吾はグラスの残りも飲み干すと、忌々しげに低くつぶやいた。 「ただの遊びだ。一晩だけの」 「へえええ、一晩だけの遊びねえ?」  シノブはにやにやと笑いながら圭吾のグラスに氷をひとつ投げ込み、ドボドボとカルヴァドスを注いだ。オーダーを無視して勝手をするのがこの店の通常運転。この大雑把さが客にウケているというのだから、世の中どいつもこいつも頭おかしいだろと圭吾は思う。そしてそれは自分自身もだ。この1ヶ月間、おかしいことだらけで舌打ちが止まらない。 「ふうん。じゃあ桜井ちゃんは、その遊びで一晩だけの女に名刺を渡しちゃったんだ。なにかあったら連絡しろっていったのは、なにもなくても連絡しろって意味だなんて、相手にしてみたらそんなことわかるわけないじゃない。その言葉のとおり、なにかないと連絡できないって思うわよ?まったく桜井ちゃんってモテるけど女心がわかってないのよね。女は食い散らかすだけで放置よろしくだから、いざってときに困ることになるのよ。ほんと女の敵よね。そんな桜井ちゃんが名刺渡すとか、連絡しろとか、それ以前に三日間も衣食住の世話を焼くなんて明日は雪よきっと。っていうか、その子と食べ物のシェアもしたんでしょ。食べ残しはもちろん人が握ったおにぎりも食べないし、食器すら共有したくない潔癖症の桜井ちゃんが驚くわ。30にもなって、まさかの初恋とかいわないでよお」  おいこらオカマ。べらべらとずいぶん詳しいじゃねえか。圭吾はじろりと隣に視線を向けた。 「……おい高岡、てめえ余計なこといってんな」  隣を睨めば、仕事とプライベート共に付き合いの長い高岡が、手元のボウモアを揺らしながら可笑しげに笑った。野生的な空気をまとう圭吾とは対照的に優男である高岡。ピンクのネクタイが似合う高岡とは週に一度はここでこうして飲む間柄だ。その高岡が目を細めて首をかしげる。 「こんな面白いネタ僕だけで楽しむなんで勿体無いでしょ。女に困ったことがなく、去るもの追わず、むしろ追い払うほうが多いサクが1ヶ月以上も健気に連絡待ちとかさ。可愛すぎて黙ってられなかった」 「はあ?てめ、殺すぞ」 「殺されてもいいよ、サクの恋が実るならね」 「恋?ざけんな」 「恋でしょ。いい加減に認めなって」 「そうそう。そろそろ観念なさいな。セックスはスポーツ、頼まれても自分の痕跡は残したくないって散々豪語してたくせに、その子には痕つけちゃったんでしょぉ?しかも未経験なその子を気遣って終始スローセックスに勤しむとか。鬼畜な桜井ちゃんがまさかの紳士。もうそれだけで驚きよお。優しくしてる時点で決定的じゃない」 「高岡……」 「え?それ僕じゃないよ。この間ここで泥酔したサクが自分でいったんだよ。ね、シノブママ」 「そうよぉ。ほんとあれにはびっくりしたわよお。何回も抱いて、もっと痕を残してやればよかったって呻いたときは目玉が落ちるかと思ったわよ」 「……は?」  目を見開けば二人がこれ以上ないほどにニヤつく。 「嘘じゃないよ。だから認めなって。惚れちゃったんでしょ。しかも一目惚れ。その足が立ち止まった時点ですでにサクは囚われていたんだよ。つまり恋に落ちた」  にこりと微笑む高岡を圭吾はいやそうに睨んだ。だが高岡の表情は変わらない。 「マジでいってんのか」 「もちろんマジだね。っていうか、いつまで気づかないふりをしてるのさ。こっちこそサクに訊きたいよ。ただの遊び、行きずりの女をあの場所に連れていくなんて、俺の知るサクなら絶対にしない。特別でもなんでもない人間を自分の聖地に連れていくなんてサクは死んでもしないよ。違う?」  高岡にそう言い切られ、圭吾はなにもいえなかった。そのとおりすぎて。  三日目にあの女を連れて行ったあの地は、圭吾にとって大切な場所だった。
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