02-1

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 カメラは単なる趣味だった。そんな圭吾がカメラを本格的にやろうと決めたのは大学3年のとき。きっかけは、なにげなく足を運んだ写真展。  ひどく圧倒された。どうしようもなく魅了された。写真家、伊藤武彦の撮る世界に。  圭吾は伊藤の元へ押しかけ、アシスタントにしてほしいと土下座した。何度断られても諦めなかった。そうして1年が過ぎ、大学生活もあとわずかとなった冬、何十回目ともわからぬ圭吾の土下座を前にして、伊藤はようやく頷いてくれたのだ。  それから4年、伊藤のアシスタントを経て圭吾は独立した。仕事のオファーはそれなりにあった。圭吾の撮った写真は評判がよかった。けどそれは重要ではなく、伊藤武彦に認められることを圭吾は欲していた。だが。 「アングルがいいね。色味もいい。上手く撮れているよ、とても上手くね」  伊藤のそれが、賛辞でないことはわかっていた。技術はある。センスもある。けどそれだけ。伊藤の目はそういっていた。  わかっているのに、どうするべきか掴めない。何度作品を持っていこうと伊藤の評価はいつも同じ。  仕事として金を稼ぐことはできていた。名前も売れてきている。新鋭写真家として圭吾は世間からも注目されはじめていた。けど、なにかが違う。求めているのはそういうことじゃない。  なにがダメなのかもわからない。いっそカメラをやめるべきか。苦悩しはじめた圭吾に伊藤はこういった。 「考えて撮ることをやめてみたらどうかな。なにもない場所に行ってみるといい」  なにもない場所。漠然とした言葉であったが、圭吾は導かれるように全国各地に足を運んだ。そして辿り着いた場所があの地だった。  冬の始まり。無機質な木々と抜けるような青き冬空。静かで、ただ静かで、けど生命を感じた。  目を閉じれば同化していくような錯覚。ゆるりと目を開けて、カメラを上に向けた。覗き込むファインダーの先で心が震えた。瞬間、シャッターを切りたいと思った。撮ろうと意気込むのではなく、心がそれを発したのだ。  切ったシャッターはひとつだけ。ひとつだけでいいと思えた。カメラを下ろしたあとも、心は震えたままだった。  歩いて歩いて歩き回った山奥で撮ったのは、たったの一枚。その一枚に伊藤は目を細め、深く頷いた。 「うん。いいね。とてもいい。これに説明はいらないだろう。言葉すらも。真っ直ぐに心に落ちてくる。そんな一瞬だ」  それは初めての賛辞。伊藤の嘘偽りのない言葉。 「この世界は1秒たりとも同じものは存在しない。一瞬一瞬の積み重ねで出来ている。その一瞬を永遠にするなど奇跡に等しい。けど僕らにはそれができる」  誰にでもできることじゃない。伊藤の目はそういっていた。 「ようやく僕のいる場所へ辿り着いたね、圭吾。歓迎するよ」  初めて伊藤に握手を求められたその日、圭吾はようやく師である男から認められたのだ。  写真は伊藤の口利きで、とある雑誌の1ページに掲載された。無記名での掲載は圭吾が要望した。伊藤のいうように、説明も言葉もいらない。そう、新鋭写真家桜井圭吾という題名は邪魔なだけ。ただただ透明なまま、誰かの心に残って欲しい。そう思った。  そしてそれは残ってくれていた。あの山奥で出会った一人の女の心に。深く深くーー。 「どうするのさ」  つぶやくような高岡の問いかけに圭吾は物思いから浮上した。高岡の手元でグラスの氷がからりと音をたてる。圭吾は今日何本目かわからない煙草をくわえると、舌打ちを呑み込んだ。  「どうにもならないだろ」 「どうにかしなよ」 「下の名前しか知らない女だ」 「でも東京の子ってことはわかってるんでしょ?ロビーで盗み聞きしてたなんて、やらしーわねえ、桜井ちゃんったら」  口を挟んできたシノブに圭吾は眉を寄せると、隣の高岡に蹴りを入れた。 「いてっ」 「なに話を作ってんだ。ロビーで煙草を吸ってたらあの女がきて、番頭との話が聞こえただけだっていったろうが。誰が盗み聞きだ。その口、縫い付けてやろうか。ああ?」  圭吾に睨まれても蹴られてもなんのその。高岡はゆるく微笑んだ。 「悪かったよサク。確かに盗み聞きっていう表現は間違いだった。心配だから自分の予定遅らせて、その子が出発するのを陰から見守ってたら聞こえちゃったに訂正するよ」 「おまえな」 「嘘じゃないだろ」  圭吾はそこで黙った。高岡の瞳から笑いが消えたからだ。 「ねえサク。気づかないふりをすることになんの意味があるんだろうね。サクの心はもう変わらないのに」  高岡の真っ直ぐな瞳も、穏やかで真摯な声もすべてを見透かしている。圭吾はぐっと目を閉じた。わかっている。本当はわかっていた。 「……くそ」  項垂れ吐き出した悪態は肯定か諦めか。  いまや記憶だけの女。だが一つも色褪せない女。吊り橋の上で見た透明な横顔。茜色に染まった女の頬をすべる涙。夜が明けていくさまを終わりと始まりとささやき、なにかを噛み締めた女。驚いた顔、笑った顔、泣きそうな顔。  三日目の朝、気づけばシャッターを切っていた。儚くも美しい女の一瞬を自分だけのものにしたくて。 「なんでもバカ正直に生きることが正しいとは思わないし、一方的に気持ちを押し付けることは愚か者がすることだ。けどいまのサクは偽るべきじゃない」 「それで?偽るのをやめてどうしろって?」 「本気になればいい」 「簡単にいうな」 「簡単にいってるつもりはないよ。ただ偽ったままでいたらサクは絶対に後悔する」  うつむいたまま圭吾は黙った。後悔なんてとっくにしている。なぜ連絡先を確保しておかなかったのか。名刺など渡さず、自分の手に接点を残しておくべきだった。わかっている。わかりすぎるほどに。  圭吾はゆっくりと顔を上げた。長年の友であるこの男のお節介は大概だ。時々本気で殴りたくなる。だから感謝はしない。 「いいのか、おまえを巻き込むぞ、大手出版社の編集長殿」 「願ってもないね。で、どうするつもり?」  圭吾はしばし目を閉じ、そして決断した。 「2ヶ月後の個展。それを使って捕獲する」  高岡は微笑み、シノブはきゃっと両頬を押さえた。
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