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写真家、桜井圭吾の個展の予定が組まれたのは半年ほど前だ。
新鋭写真家として注目されてから数年、いまや圭吾の名は業界内外問わず知れ渡っている。次代の伊藤武彦と称され、その実力は伊藤本人の折り紙付きとなれば業界外からも注目されるのは必至。圭吾の写真に魅了される人間は瞬く間に増えていき、いまや様々な場所にファンが多数存在していた。
これまで周囲の勧めから個展を幾度か開催してきた圭吾だが、本来面倒くさがりな性格のため準備のあれこれは毎回コーディネーターに丸投げしていた。それは今回も例に漏れずであったのだが。
「コーディネーターの荒川君、やつれてたなあ。今日仕事で会ったんだけどさ、桜井先生が急にやる気を出してきたんですけど、なにがあったんですかって、僕、泣きつかれちゃったよ。開催までもう時間がないのに変更の嵐でパニックです。だってさ」
「へえ、荒川のやつ、なにもいってなかったけどな」
「そりゃいえないでしょ、怖くて」
捕獲宣言してから1週間。再び顔を突き合わせたバーのカウンター。可笑しげに笑う高岡の横で圭吾は煙草をくわえる。すかさずそこにライターの火が差し出された。この店の主、シノブだ。
「荒川君って、あの可愛い顔した子でしょ。あの子、あたしの好みなのよねぇ。もー高岡ちゃんったら、どうして連れてこなかったのよ。あたしが癒やしてあげたかったわ」
シノブから火を貰った圭吾はため息をついた。
「やめてやれ。ノンケを泣かすな」
「ええー。でもあの子、絶対に素質あると思うのよねえ。あたしがあの手この手で目覚めさせてあげたいわあ。ねえ高岡ちゃん、次は連れてきてぇ」
「連れてくるのはいいけど、酒を振る舞うだけにしてあげてよ。サクの無茶振りに、いま本気で疲労困憊中だからさ」
「あらまあ、そんなに?桜井ちゃん、いったいなにしたのよ」
「なにって、展示内容を全部変えるっていっただけだ。あとは会場の作り方を指示したぐらいか。たいしたことないだろ」
「それ、十分にたいしたことだから」
高岡は苦笑と共に、いまも奔走中だろう荒川に同情する。荒川は美術展や展示会などを取り仕切るイベント会社のコーディネーターで、圭吾の個展をずっと担当している人物だ。
半年以上前から準備が行われてきた大規模な個展まで、あと2ヶ月。いや、厳密に数えれば1ヶ月と2週間余り。そこへきてこの変更。
展示される作品のピックアップはもちろんのこと、作品の配置やライティングなど細かな点もすでに決まっている。同時に会場に設置される大型パネルや宣伝用のフライヤーなども専門デザイナーの手で作成され、あとは本刷りを前にした最終調整に入っているはずだ。他にもインターネット上に専用のページが作られ、個展についての案内や趣旨などが掲載されている。じきにチケット販売も開始されるだろう。
そのすべてが一旦白紙に戻る。簡単にいえば、やり直し。展示内容の総入れ替えとは、つまりそういうことである。
「一応いっておくけど、泣いてるのは荒川君だけじゃないよ。僕もだから」
高岡もじつのところ、荒川に同情している場合ではない。桜井圭吾には二つのスポンサーがついている。ひとつは大手カメラメーカー。もう一つは高岡の所属する出版社だ。そのため写真集の出版権はもちろん、個展や桜井本人の特集など優先的に行える権利を高岡が率いる写真専門月刊誌フォトシックが持っている。
「いまさらだろ。巻き込むぞっていったはずだ」
「そうなんだけどさー。総入れ替えってなると、こっちも総入れ替えなんだよね。来月号に掲載予定だから締め切りとかヤバいし、ページの振り分けもやり直さないといけない。特集の原稿からしてボツだし、予定していた画像も使えない。担当チームは余命宣告されたみたいに固まるし、他の皆んなからの視線も痛いのなんの。だから僕がやりますっていっちゃったよ」
おかげで来週から徹夜の日々だよ。と両手で顔を覆いながら大袈裟に嘆く高岡はなんともわざとらしい。だが徹夜は本当だろう。ちらりとシノブを見れば、心得たとばかりにボウモアを高岡のグラスにトボトボと注いだ。
「元気出して高岡ちゃん。今夜は桜井大先生の奢りだそうよ。それからこっちは、あたしからのサービス。高級チーズよお」
高岡はくすりと笑んだ。なんだかんだと圭吾という男は、傍若無人になりきれないのだ。シノブの気遣いも嬉しい。だが。
「これ、高級チーズ?」
「そうよお。なんと裂けるのよ!」
確かに裂けるチーズと書いてある。コンビニでもよくみかけるそれは、冗談なのか本気なのか。なぜかドヤ顔のシノブに高岡は吹き出した。
「やっぱりここはいいな。来週は頑張れそうだ」
「でしょ?」
「おまえら、マジで頭おかしいだろ」
圭吾だけが呆れたため息をついた。
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