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展示されている写真には、すべて数字がついていた。それが時刻を表していると気づいたのはすぐのこと。そして個展名とリンクしている。
伊藤は顎に手をやりながら、興味深く最初の一枚を見つめた。
これは荒川の提案によるものではない。個展名や写真のタイトルは元より、自身の名すら不要と考えている男が自ら決めたのだろう。
荒川と別れた伊藤はゆっくりと一枚、また一枚と、218,160秒の永遠と名付けられた世界をその目に映していく。そのどれもに伊藤は魅入った。
「なるほど。荒川君が無理をしたのも頷ける」
そして伊藤は11:39と記された写真の前でしばし立ち止まると、年甲斐もなく胸が高鳴るのを感じた。
それは入り口に設置された大型パネルの写真と似通った構図。だが決定的に違う箇所がある。透明な空にのばされた華奢な白い手。明らかに第三者。そしてそれを許した男。この地が男にとって大切な場所であることを知っている伊藤は、それがどれほど大きなことかわかっている。
記されている時刻を個展名にリンクさせ経過を追えば、おそらくこのあとの展示は数枚。途切れた壁の向こうにあるはずだ。早る鼓動を抑え、伊藤は静かに足を踏み出した。
そこには真っ白な壁を背にした二枚と向かいの壁にもたれ、それをじっと見つめながら煙草の煙を上げる一人の男がいた。
訊いてみたい事柄がいくつもあった伊藤だが、最初に出た言葉は苦言であった。
「ここは禁煙ではなかったかな?荒川君をこれ以上泣かせることになっては、さすがに可哀想だ」
煙草をくわえたまま男が停止した。どうやら驚いたらしい。ぽかんとした顔をしている桜井圭吾に伊藤は苦笑した。
「前日の忙しい折に申し訳ないね。勝手にお邪魔させてもらったよ。君の師として、これぐらいの特典は許されるかと思ってね」
「いえ、それはもちろんかまいませんけど、」
圭吾は数度瞬いたのち、ようやく状況を把握したのか、いくぶんか慌てた仕草で煙草を携帯していた灰皿に押し込むと壁から背を離した。
「驚きました」
「ふふ、悪かったね。いつも君の個展は覗かせてもらっているが、今回は君の考えを知りたくなって荒川君に頼んだんだ。入り口にあるパネルの写真。どんなに荒川君や友人である高岡君が頼んでも、あの雑誌以降一度たりとも使用させなかった君がそれを許した」
伊藤は圭吾に視線を向けた。
「どうしてだい?」
圭吾はわずかに唇の端を上げた。
「そう訊きながらも、先生の中では答えが出ているという顔をしてますけどね」
「そうだねえ。仮定であるが、とある答えが浮かんだのは、いま見てきたばかりの11:39。もしやという期待と共にそれを確証できたのはいまだよ。5:06、そして5:10」
記してあるのはそれだけではない。
「美しき空、か」
伊藤は二枚の前に立つと、眩しげにその目を細めた。数字だけではないタイトルがつけられた二枚のポートレート。
「16:26から始まった278,160秒の世界に僕はすっかり圧倒されてしまったよ。そしてここへ辿り着いてわかったことがある。これまでの君の世界も素晴らしかったが、それでもなにかが足りなかったんだと」
伊藤は後ろで手を組むと、ひとつ頷いた。
「そのなにかを勝手ながら推測させてもらうが、それはきっと自分の見えている世界を伝えたいと真摯に願う心。けどそれは万人ではなく、ただ一人に向けられている。我が儘で贅沢で、傲慢ともいえる。けどそれが桜井圭吾という写真家をさらなる境地へと導いた」
世代交代のときがきたかな。伊藤は小さくそうつぶやくと振り返り、圭吾に笑んだ。
「圭吾、君は運命に出会ったのだね」
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