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 結局、邪魔だったのか、そうではなかったのか。この存在はそこにあったのか、なかったのか。男の目にはどんな色で映っていたのだろうか。  気になったのはその後、男と別れ、白い箱の中から青い空を見上げたときだった。   「……おい。なに着いてきてんだ。帰れ。町に向かうバスの最終を逃したいのか」  カメラをケースに戻して歩きだした男が数メートルもいかないうちに立ち止まった。 「おじさんはどうするの?この先は山しかないでしょ」 「あ?いいんだよ俺は。この先にある山小屋に、っておいっ、なに先を歩いてんだっ。帰れっつったろっ」 「山小屋行くんでしょ?私も行く。いいよね?」 「いいわけないだろが。てめえ、アホ以下どころか頭がイカれてんだろっ」  またひどいことをいっている。まあでも、当たっている。 「そうだよ。私、イカれてるの。だからここでおいていったら飛び降りるよ。マジでやるけど」  いいよね?そういって振り返ると、わずかに目を見開いた男が黙った。そして数分沈黙したのちの舌打ちは大きかった。勝手にしろと吐き捨てて。  男は心底いやそうだった。何度も舌打ちしていた。けど、その歩みはやけにゆっくりで、気遣ってくれているのは明白。その無骨な優しさにこっそり笑った。けどすぐに笑っていられなくなった。 「足が痛い」  この山に通うこと四日間。山道の入り口まではバス、そこから吊り橋より奥へ進んだことがなかったから気づかなかった。いままで歩き回っていた山道は平坦に近いものだったのだ。この先にあるらしい山小屋までの道のりはまさに登山。もしかして失敗したかもしれない。 「疲れた」  もともと体力はない。しかも夕暮れとともに気温が下がってきた。日中は比較的暖かったため、上着はいらないと判断してしまったことを後悔する。露出している肩が冷たい。 「さむ……」  肩をさすったところで先を歩いていた男が振り返った。心底不機嫌な顔で。その顔で決めた。帰れといわれたら帰ろう。そもそも着いていくなど無謀だったのだ。そう、自分はバカでもアホでもない。イカれてはいるけど。  あ、眉間にしわ。最後に謝ろう。そう思った。男は無言のまま、たった数歩で目の前に立った。そしておもむろに荷物を足元においた。背負っていたリュックまで。何事と目をまたたいていると、男は着ていたウィンドブレーカーを脱いだ。 「着ろ」 「え、あの」  差し出されたそれに目を丸くすると、男が舌打ちした。 「凍えたくないだろ。いやならいい」 「べつにいやじゃ」  ほぼ無意識につぶやくと、ばさりとウィンドブレーカーが肩にかけられた。 「袖、通しとけ」  そのほうが暖かいから。男の言葉はそう理解できた。無骨な優しさだけでなく、お人好しでもある男。ふたたび荷物を背負い、男は歩きだした。慌てて袖を通して男を追いかける。 「……山小屋までもう少しだ。足は我慢しろ」  振り返らずにそういった男の声はやはり不機嫌で、でもその歩みはさらにペースを落としていた。その後ろ姿をじっと見つめた。いままで見た中で誰よりも大きい背中だ。 「ねえ、おじさん。名前、なんていうの?」  男がゆっくりと振り返った。そして立ち止まりしばし無言。やがてその口が開いた。 「さく、いや、けい……」  そのまま黙る男に首をかしげる。 「さく?けい?どっち?」 「……圭吾(けいご)だ」 「圭吾」  その名を口で転がしてみる。キレイな響き。するとその男、圭吾が聞いてきた。 「おまえは?」 「え?」 「名前」  圭吾の視線が斜め下に向いている。いままでさんざん睨んできたくせに、ここで視線を外すとか。不貞腐れているのか照れているのか、少しだけおかしくなった。 「あおい。美しい空って書くの。読めないってよくいわれる」 「美しい空で、美空(あおい)か。たしかに読めないな」 「でしょ。けっこう苦労してる」  そういって笑うと、男がかすかに目を細め、小さくつぶやいた。それは小さすぎてよく聞こえなかった。けど圭吾は確かにこういった。 ーーおまえに似合ってる。  大きなウィンドブレーカーからは、かすかなタバコの匂い、そして圭吾の香りがした。
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