02-3

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 あの三日間を外で話す気にはなれず、美空は早苗の家を希望した。退院してから間もないせいか、長時間の外出に難色を示す母親も早苗の家ならなにもいわない。案の定、連絡一つで済んだ。 「早苗ちゃんが一緒なら安心ね、だって」  美空は早苗の部屋でハートのクッションを抱きしめながら、むうと唇をとがらせる。 「お母さんって昔から私よりさーちゃんを信頼してるんだよね。娘としては複雑なんだけど」 「そりゃ、おばさんの見る目が確かだからでしょ。拗ねるな娘。ほらココア」 「うう、ありがと」  ベージュのマグカップに熱々のココア。これはべつに偶然じゃない。冬の飲み物はココアというのが美空の定番だ。当然それを知っている早苗は訊くことなくココアを持ってきた。  そう、偶然だったのはあの夜のほうだ。静かな闇とオレンジの炎、そして満点の星。けどもうあの時間は戻らない。 「どしたの美空。もしかしてココア熱すぎた?」  美空は慌てて顔を上げた。 「ううん大丈夫。それより裕介くん、よかったのかな。車あったのに電車で帰っちゃうし」  霊園の駐車場では藤宮家の車が待っていたのだが、二人でゆっくり話せといって裕介は一人そこから帰ってしまったのだ。 「ああ、いいのいいの気にしないで。裕介が自分からいいだしたんだから。確か本屋に行きたいっていってたし電車のほうがよかったんじゃないの。それに、あいつがいたら美空も話しにくいでしょ」 「まあそうだけど」  美空はマグカップを両手で包んだ。そしてカップの中が半分ほどになったとき、テーブルの向かいで早苗が姿勢を正した。だから美空も姿勢を正す。テーブルの上にはマグカップが二つと一つの雑誌、フォトシック。 「とりあえず、この雑誌の内容はおいておく。まずは美空の話を聞かせて」 「うん。あのね、去年一人で旅行に行ったでしょ。この写真の山に毎日通ってて、四日目にそこで出会ったの。この人、桜井圭吾と……」  美空はそっと視線を落とした。そこにはあの山の写真。色のない木々と青い空。それだけの空間。けどとても美しい。哀しくなるほど。 「それから三日間一緒に過ごした。奇跡みたいな時間だった。ううん奇跡だった。この人に出会わなかったら私ね、自分の人生を諦めたままだった」  視線を上げれば早苗はひどく真剣な顔をしていた。美空はそれをほぐしてあげるように笑う。そして圭吾と過ごした時間を我が親友に打ち明けた。いままで誰にもいわなかった奇跡に満ちた三日間を。  早苗は黙って最後まで聞いてくれた。そして深く深く息をついた。 「なんかもう内容が濃すぎて、どこから突っ込めばいいのやらだよ。叱らないといけないとこも多々あるし。だいたい山小屋って何キロ歩いたのよ。そのあともずっと歩きっぱなしじゃない。なによその秘境って。普通の人間でも疲れるでしょ。熱は?出なかったの?」 「それがね、大丈夫だったの。もちろん疲れてはいたんだけど平気だった。不思議だね」  思えばそこからして奇跡だったのだ。 「そっか。まあでも話を聞くかぎり、桜井圭吾は美空のことだいぶ気遣ってるよね。吊り橋の出会いとか考えると荒くれた男ってイメージで山小屋で美空を押し倒したのも、さもありなんって感じなんだけど。でもそれさ、わざとな気がする。本当にやる気だったらやめないでしょ」 「うん。そう思う」  それは美空も思っていた。三日目の夜、圭吾の態度がそれを確定させた。 「寝袋なんて、おばさんが聞いたら真っ青になりそうだよね」 「ふふ、そうだね」 「でもファミレス、よかったね経験できて」 「うん。一人じゃ絶対に入れなかったから嬉しかった。あのね、パンケーキ食べちゃった」 「そっか」  嬉しそうな美空に早苗も嬉しくなる。  美空の食生活は監獄並みに規制されている。幼い頃から栄養士管理の下、母親である真理子が朝昼晩365日すべてに目を光らせ、それは高校生になっても変わることはなく、放課後の寄り道は許されても添加物が多いファミレスやファーストフード店は絶対にダメだと言い渡されていた。  いくら病気が理由だとしても、少しぐらい問題ないのではと早苗は思ったが、美空はそれを破ろうとしなかった。我慢していた。バカみたいに。いつもいつも。 「で、コンビニのおにぎりも初体験できたんだ」 「それは食べたいわけじゃなかったけど、圭吾が食べろって」 「へー、圭吾、ね」 「だって、名前しか知らなかったし」  わずかに頬を赤くする美空を早苗はじっと見つめた。その顔に後悔は見当たらない。それでも訊いておきたかった。 「ねえ美空。あんたが三日目の夜を桜井圭吾と過ごしたのは、桜井圭吾があの写真の撮影者だって知ったから?」  だから特別なのだと感じてしまったのか。早苗はそう訊きたかった。誰であっても初経験は大きな出来事だ。そして誰もが幸せな経験となるわけでもない。ときに深い傷を残すことだってある。  ずっと思い続けていた見知らぬ撮影者が実体となって現れ、だから勘違いしてしまったのかもしれない。あとで後悔することになるかもしれない。本当に好きな人ができたときに。けど美空はすぐに首を横に振った。 「それは違う。撮影者だって知ったのは別れたあとだし。三日目の夜、圭吾の部屋に行ったのは圭吾にしか出来ないって思ったから。圭吾じゃなくちゃいやだったし、圭吾だけが私に生きている証を残すことができるって思った。そしてそのとおりだった」  美空は静かに微笑んだ。 「だからいま、私はこうして生きてるんだと思う」  早苗はなんだか泣きそうになってしまった。美空は元々キレイな子だが、いまの美空は透き通るほどにキレイで眩しい。 「美空はさ、恋したんだね。三日間だけの恋。でも一生に匹敵するぐらいの恋。だからいまも心に残ってる。そんな顔してるよ美空」  早苗の言葉に美空は驚いた。 「え、うそ」  なるべくポーカーフェイスでいたはずなのにと、美空は頬を両手で押さえた。 「わからいでかってやつよ」  ふんと鼻を鳴らす早苗に美空は目を丸くした。 「すごい。さーちゃって、やっぱり」 「天才じゃないから。長年の付き合いの成果だから。いい加減そのボケやめて」 「なにそれー」  美空は唇をとがらせ、早苗はやれやれとため息をついた。
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