02-4

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02-4

 個展25日目。会場上階にある控室のドアを小さく開けた髭面強面は、そのまま無言でそっと閉めた。そして少々青ざめた顔で振り返る。 「なんか無理かもぉ。桜井ちゃんを取り巻く空気が不穏すぎて入れないわ」  シノブに付き添ってここまで来た高岡はため息をついた。 「だからいっただろ。僕も不用意に近づかないことにしてる。あと五日、もう見守るしかない」 「そうねえ。でも未だ現れないなんて、もしかして東京にいないんじゃないかしら。それか、まったく桜井ちゃんに興味ないか」  高岡はなんともいえない顔でシノブをみた。 「それサクの前ではいわないであげて」 「わかってるわよお。それよりこの差し入れどうしようかしら」 「荒川君にでも渡すといいよ。たぶん下にいる」 「あの可愛い子ね。まあ仕方ないわね。今日は荒川君を愛でて帰ることにするわ」 「あれ、個展は見ていかないの?」  首をかしげる高岡にシノブはうふふと笑った。 「じつはもうとっくに見てるのよねえ。開催されてからわりとすぐよ。いやもうすごかったわあ。特に最後の二枚。この私も思わず見惚れちゃうぐらいキレイな子ね。透明感があってなんか儚くて。それでいて可愛いの。確かにダダ漏れよね、あれは」 「でしょ」 「愛しさに溢れてたわ」 「そうだね」  高岡は笑んだ。シノブはうんうんと頷く。 「そういうのってやっぱり伝わるわよね。あの二枚に釘付けな人、けっこういたわよ」 「だろうね」 「私の前にいたカップルなんて怪しいほどに固まっちゃってたし。そういえば、なんだか言動も怪しかったわねえ。幻覚だの心霊写真だのいって」 「へえ?」  高岡は片目を細めた。なんとなく引っかかった。 「そういえばあのカップル、その前から変だったかも。急に挙動不審になって、写真を指差してネイルがどうのっていってて彼氏が大声で驚いたりして。今時の若者って皆んなああなのかしらねえ」 「ネイル……?」  高岡はわずかに眉を寄せる。最後の二枚の前は確かあの写真だったはずだ。空に伸ばされた彼女の手。その指先にはそう、ネイルが施されていた。それを見て驚く理由はなにか。高岡の直感がわずかに騒めく。 「さあて私の可愛い荒川君はどこかしら。あらあら、今日も相変わらずごった返しねえ。盛況でなによりだけど、肝心の待ち人は未だ来ずなんて、なんか切ないわね。あらあの子、あの彼女じゃない」  エレベーターで1階の会場に降りたところで周囲を見回したシノブの視線の先を高岡も見た。 「シノブママの知り合い?」 「違うわよ。ほら、いま話してたカップル。その彼女のほうがまた来てるのよぉ。今日は一人みたいねえ。2回も遭遇するなんて、あの子かなり来てるんじゃないかしら。桜井ちゃんのファンなのね。でもそのわりに顔つきが。あらやだ、なにやらトラブルっぽくない?」  見れば、会場の受付ブースの前で話している女性スタッフと女性客がいた。客のほうは若く、まだ大学生という風情だ。首を振るスタッフになにやら食い下がっているようにみえる。 「ちょっと見てくるよ」  シノブに断りを入れ高岡は二人の元に向かった。 「なにかお困りですか?」  スタッフが振り向いた。 「あ、高岡さん。その、こちらのお客様が桜井先生に会わせてほしいと。無理ですとお伝えしているのですが」 「サクに?」  高岡が視線を向けると、女の子は真剣な顔つきでこちらを見ている。その真っ直ぐな瞳。それは意思の強さを表している。  シノブがいうような桜井圭吾のファンか。それとも芸能関係か。素人そのものな風情だが駆け出しかもしれない。桜井圭吾の写真に魅せられ、撮影を希望する人間は多い。  だが当の写真家は人間嫌い。めったにオファーを受けることはない。だが諦められない人間はいるもので、直に売り込みにくる者もいる。 「僕が話を聞くから君は業務に戻っていいよ」 「でも」 「かまわないから。あと荒川君をインカムで呼んでもらえる?あそこの髭の大男からサクに差し入れがあるから受け取ってって」  高岡の視線を追ったスタッフがぎょっとした顔をした。シノブのインパクトは昼間も健在らしい。顔をひきつらせながら頷くスタッフに苦笑しつつ、高岡は改めて女の子に向き合った。 「えーと、それで君はどうしてサク、桜井圭吾に会いたいのかな?それ相応の理由がないと無理だよ」  さあ、なんと答えるのか。直感が正しければ、彼女はファンだの撮影だの口にしないはずだ。頼むから失望させないでくれよ。 「理由はあります。桜井圭吾がどれだけ真剣なのか確かめる必要があるんです」  高岡はわずかに頬を緩めた。失望どころか、なんとも興味深いことをいう。だが抽象的すぎる。 「それはどういう意味かな」 「美しい空に対してという意味です」  彼女の簡潔な口調。この子はしっかりと考えた末ここへ来ている。これはもしかしてリーチなんじゃ。高岡は前のめりになりそうな自分を抑えるように腕を組んだ。この手のタイプは頭の回転がいい分、見切りも早い。なにこいつと思われたら最後、その背を見送ることになるだろう。  高岡は早る気持ちを抑え、警戒されないように勤めて冷静に口を開いた。 「なるほど。つまり君は、その美しい空と知り合いだということかな。差し支えなければ間柄を訊いても?」 「ええ。親友です」 「なるほど」  高岡は目を細めた。親友ね。口ではなんとでもいえる。知り合いなのは本当だろう。同じ大学なのかもしれない。同級生、同サークル、友達の友達。有名写真家に取り入るための利用。けど彼女はそのどれでもない気がした。そうつまり、彼女は嘘などついていない。彼女は美しい空、親友のために桜井圭吾に会いにきたのだ。  直感を疎かにする人間はチャンスを逃す。高岡はゆるりと唇の端を上げた。これがビンゴだったら、サク、あとで奢れよ。 「わかった。それじゃ、いまから案内するよ。彼はこの上の階にいるから」 「いいんですか」  女の子は驚いたように高岡を見上げる。おそらくダメ元、無理だと思っていたのだろう。 「もちろん。ああそうだ、君の名前を訊いてもいいかな。会わせるのに名無しってわけにもいかないからね」 「あ、そうですよね。田原です、田原早苗です」 「田原さんね。僕は高岡です。よろしく」  穏やかに笑む高岡に少々安堵した早苗は、そこでようやく緊張していた表情を緩めたのだった。
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