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田原早苗の訪問から五日後、桜井圭吾の個展は盛況のうちに幕を閉じた。最終日まで賑わいをみせた会場だが、終了と同時に大型パネルやポスター、案内板なども撤去されてしまえば何事もなかったように静まり返り、人の気配さえも皆無となった。
街は夕刻から闇夜へゆるりと移り変わっていく。早苗は駅前で待ち合わせていた裕介に気づき手を上げた。
「悪い、待ったか?美空ちゃんは?」
「渋滞に巻き込まれたみたいで少し遅くなるって」
「そっか。この時間はどうしても混むしな。けど相変わらず送迎は外してもらえないか。藤宮家の事情もあるんだろうけど、やっぱり心配なんだろうな」
裕介は藤宮家の車が来るだろう方向を見ながら少しだけ眉を下げた。早苗も同じように視線を向けながら頷く。
「そうだね。おじさんもそうだけど、特におばさんがね。美空はいい加減にしてほしいみたいだけど」
「あー。まあでも、母親って大概がそういうものだろ。基本放任のうちでさえ、そういうときあるし、早苗のとこなんて門の前で仁王立ちしてたことあったじゃん。ほら大学1年の頃、連絡なしで深夜近くに帰ったとき」
「あー、あれね。裕介、土下座したよね」
早苗はくすくす笑った。なんて、いまでこそ笑えるが、仁王立ちした母親から無責任な付き合い方しかできないなら別れなさい!と叱責され、早苗は泣きながら謝り、裕介にいたってはその場で土下座したのだ。
「あれ、早苗のお父さんが間に入ってくれなかったらヤバかったよな」
「普通は反対だよね」
怒りがおさまらない母親に取りなしてくれたのは、なんと父親だった。まあまあ二人とも反省しているしと父親が三人を家に入れ、美味しいコーヒーを出してくれたのは温かな思い出だ。
「あのときは、お父さんサマサマだったよなあ」
「ふふ。でも裕介が頑張ってくれたから、お父さんもそうしてくれたんだと思う。あんなに怒ってたお母さんも裕介が帰ったあと、なんていったと思う?裕介くんお婿に貰っちゃいなよ、だって」
早苗の告白に裕介は目を見開いた。
「ええマジでっ。なんだよそれ。初めて聞いたんだけど。なんでそのとき教えてくれないんだよ」
「振り幅が激しすぎていえなかったの。だって調子良すぎでしょ」
「いやいや、そんなことない。そのとき聞いたら絶対に嬉しかったよ。いまだって嬉しいし。ヤバ、なんかめちゃ嬉しいかも。俺、お母さんにケーキのお土産買ってくわ」
「なにそれ」
「気持ちは形で表現するタイプなんだよ俺」
「ええ、いつからそうなったのよ」
呆れながらも早苗は嬉しそうに笑う。そんな早苗を見下ろし裕介も笑う。
「買うなら美空ちゃんが大丈夫な店がいいよな。桜花堂って何時までだっけ。美空ちゃん、今夜は早苗のとこに泊まるんでいいんだろ?っていうか、よく許してもらえたな」
「うん。いつものごとく透さんが味方してくれたって。もう少し自由にさせてあげないと今度は違う病気になる、それでもいいのかっていったらしいよ」
「うわ。透さんじゃないといえない台詞だなそれ」
「ほんとそれ。あ、あの車そうじゃない?」
早苗が指差したその先で、駅前のロータリーに黒塗りの高級セダンが静かに滑り込み停車した。その後部座席のドアが開くと、早苗の予想どおり美空が姿を現した。
「よしよし。ちゃんとお洒落してきたな」
沢山の人が行き交う通りで左右を見回す美空に早苗は手を振りながら満足げに頷く。
こちらに気づいた美空の本日の服装は、品のよいオフホワイトのワンピースに質のよさげなペールブルーのスプリングコート。足元はリボンが可愛いベージュのローヒールパンプス。持っている水色のハンドバッグと同色のストールは、おそらくカシミアシルクだろう。決して安くはないパシュミナをマフラーのようにぐるぐるに巻いているところが本人の無頓着さを少々表しているが、本来の黒髪に戻った艶やかなロングヘアと透明感のあるメイクで仕上がった美空は、どこからみても「ザ・お嬢様」である。
「髭ジイの墓参りのときも思ったけど、あんなに騒いでたギャルファッションはもう終わりなわけ?」
首をかしげる裕介に早苗は肩をすくめた。
「そうみたいね。なんでも旅行のとき誰からも文句いわれずに堪能できたから満足したらしいよ。憧れという名の好奇心が満たされたんでしょ。そこそこ似合ってはいたけど、美空本来のイメージじゃないし。あっ、あの子、なんで走るかなっ」
人混みの中を駆けてくる美空に早苗の眉が釣り上がった。
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