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 結局コーヒーは飲み干せなかった。けど圭吾はなにもいわず、そのカップにコーヒーを注ぎ足し無言で口をつけた。  カレーもだが、他人が口をつけたものいやじゃないんだ。そんなことを考えながら、美空は座っていることすら苦痛になりつつあった。  先ほどスマホで確認した時刻は夜の8時。今日は朝から出歩いていた。加えて体力など皆無とわかっていながらの山登り。疲労しないほうがどうかしている。  熱、ないよね……?  そっと額に手をあてたとき、ストーブの向こうで圭吾がおもむろに立ち上がった。そして荷物をあさったのち、なにかを持ってそれを畳の上に広げはじめた。  なにやら投げやりな動きに見えるのは気のせいだろうか。いや、投げやりだ。もはやこれは、この男の鉄板か。きっとそうだ。 「寝ろ」  そして命令口調が多い。早くしろ。帰れ。着ろ。食え。そして寝ろ。あ、自分、記憶力いい。けど寝ろ?  その意味を確かめるべく振り向くと、畳の上にはナイロンの袋のようなものが広げられていた。もしかして、そこに寝ろといっているのだろうか。まさかさっきの続き、ではないらしい。圭吾の顔にその色はない。むしろ不機嫌。ということは純粋な睡眠ということなのだろう。 「え、いや、大丈夫」  思わず断ると睨まれた。そして腕を掴まれ立たされる。急な行動に目をぱちくりとさせながら見上げると、不機嫌なままの圭吾が小さく舌打ちした。 「いいから寝ろ。疲れてんだろ。倒れられでもしたら、いい迷惑だ」  反論はできなかった。疲れているのは事実だし、倒れた場合、迷惑以上の事態になるだろうことも事実だ。それになにより横になりたかった。 「えっと、それじゃ、……うん」  おずおずと畳に腰を下ろした美空はナイロンのそれに視線を向けた。けどこの上で寝るのはちょっと。 「あの、これって収納袋だよね。畳の上で寝るから大丈夫」 「……これは寝袋だ。アウトドア用品。寝るためのものだ」  なぜため息をつくのか。だって知らないのだから仕方ない。あ、でも見たことあるかもこれ。 「そういえば、バラエティ番組で山登りしていたタレントが使ってたの見たことある。あったかそうだった」 「そりゃよかった。わかったら、とっとと入れ」 「また命令口調」  唇をとがらせながらブーツを脱いで、寝袋に足を入れた。そしてすぐに実感する。 「ほんとに暖かい。え、すごいね、こんなに薄いのに。……あ、でも圭吾は?」  遅ればせながら気がついた。食料が一人分だったのだ、これも一人分しかないに違いない。美空は焦った。さすがにそれはダメだ。 「俺はべつにいい。椅子で寝れる」 「そんなの疲れちゃうよ」 「慣れてる。いいからおまえはさっさと横になれ。明日歩けなかったら救助呼んで、ここにおいていくからな。付き添うなんて面倒な真似はしない。悪いが脅しじゃない」  圭吾に睨まれ、美空は黙った。きっとこの男は言葉のとおり実行するに違いない。それは理由のない確信。  けどそうなった場合、困る。非常に困る。救助なんて呼ばれたら大事だ。きっと病院に連行される。そして連絡がいって絶対に大目玉だ。あと三日残っている日程が最終日を待たずして終わってしまう。それはいやだ。 「じゃあ遠慮なく。あ、ならこれ」  美空は着たままだったウィンドブレーカーを脱いだ。ストーブがついているとはいえ、機密性のない山小屋はそれなりに寒い。 「せめてこれ着て」  圭吾は黙ったままそれを受け取り、椅子に戻っていく。美空はもそもそと寝袋の中に体を入れた。本当に暖かい。すごいな。そしてすごいのは圭吾も同じ。感心を通り越して呆れるほどのアホっぷり。  そう、本当のアホはこの男のほうだ。会ったばかりのよくわからない女なんて見捨てたらいいのに。 「……アホがつくほど優しくてお人好し」  口の中だけでそっとつぶやくと、寝袋の端を口元まで引き上げた。  夜の帳を下ろした山奥は沈黙に包まれていた。時折吹く風による葉のささめき以外はなにも聞こえない。なんて美しい静寂なのだろう。外は深い闇。今日の世界が埋もれるように終わっていく。そんな漆黒の中で、明かりはストーブの炎と天井からぶら下がった小さな電球のみ。  オレンジに照らされた男は美空から返されたウィンドブレーカーを羽織り、煙草に火をつけた。  伏せた視線、薄い口元、無精髭。広い肩、鍛えられていそうなその体躯。男はとても精悍だった。ゆらりとけぶる紫煙が男を取り巻いては消えていく。  なんとなく目に焼き付けておこうと思った。こんな出会い、きっと二度と起こらない。こんな男、きっと二度と出会えない。  じっと見つめたのち、男に気づかれる前に目を閉じた。微睡はあっというまに底のない泥沼へ。夢も見なかった。だからーー。  男の長い指先が額の髪をそっとなでたことを美空は知らない。
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