形見

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 龍が死んだ。  研究所に保護されて、二十六年十一ヶ月と一日目のことだった。  静かな朝だった。午後から崩れると予報されていた空は、けれど東からの白い光をきらきらと鏤めてまだ清いままでいた。何時もなら目覚めた鳥の囀りが鳴り渡る筈のサナトリウムは、何故だか水を打ったような沈黙に覆われていた。ぞわりと首筋を這う悪い予感をよそに私たちはサナトリウム中を駆け巡り、そしてとうとう見つけてしまった。敷地のいっとう南側、玉かぎる木漏れ日が静寂をいっそう静謐たらしめる中、木々の影にひっそりと伏している龍の姿を。  息は、すでになかった。  ほんの昨晩までとなんら代わりのない、ただ動くことを止めただけの龍を、しばらく声もなく見下ろす。  辺りの木々には鳥が止まっていた。数十というそれらは龍の周りをぐるりと取り囲み、空の主であった生き物の体を、鳴くでもなく、音もなく見つめていた。さながらその空間は礼拝堂の様。  だから静かだったのだ。冷えた指先で、硬い鱗に触れながら悟った。            ◇◇◇  龍に出会ったのは今から四年前のことだ。  龍に出会った時の私ときたら、言語学を修めようやっと学舎から巣立ったばかりの新米だった。机上の頏宣語については並の人よりそれなりに明るいが、実際に龍と対話した試しは終ぞなく。龍からしたら私なぞきっと、雛鳥の如く小さく見えたに違いない。  先輩方に付き添ってもらいながら、おっかなびっくり彼と対峙した昼の日のことは、夢のように覚えている。まだ肌寒い春の日で、山の中腹に座すサナトリウムの空気は薄く澄んで、時折からんころんと微かに可愛らしい音を響かせていた。ほら、あそこだ、と先輩が示す手のひらの先、森に湧く小さな池のほとりに、それは坐した。  光る青緑。よく磨かれた、社の屋根の色。  それを目にしたあの瞬間。あれはきっと、天啓を受けたに等しい刹那だった。この生き物を、私は一生恋い慕うのだという、使命感にも似た確信があった。  細長い体躯が、指先すら動かせなくなった私の目の前でしなやかに蠢いていた。動くたび、体の鱗のひとひらひとひらが、春の陽光にちらちらと瞬いて眩しかった。長い一対の髭が重力に逆らって、早春の大気を御している様がなんとも不思議だった。人間なんて一口で食ってしまえるほど大きな体が、見た目に反していとも軽やかな挙動をするので、ああこれは並みの生き物ではないのだ、とまた頭を殴られた心地になった。時に信仰され、時に恐怖され、また時に憧れを抱かせてきた生き物。人の知り得るいかなる知識を以てしても、未だその在り方を計り知れぬ大いなるもの。  こちらを向いた黒い眼に、私は片言の頏宣語で挨拶をした。おそらくそうした筈だ、緊張と畏怖であまりよく覚えてはいない。暫くわたしを眺めたのち、徐に龍は音もなく歩み寄ってきた。声も出せない私の目と鼻の先まで来ると、首をもたげ、それから一度瞬きをする。鱗ひとひらひとひらの、形すらはっきり見えていた。よく見ればそれらは、みな少しずつ違う色形で光っている。あるものは凍玻璃のように、またあるものは風花の趣、そしてまたあるものは雨夜の月。この世の綺麗なもの全て、この六尺六寸に収められているとすら思われるほど。  龍が瞼を開いた。大きくて寛大な生き物は、呆気にとられるほど優しい目をしていた。 「これは、また。小さな物好きが来たらしい」  喉を鳴らした龍の言葉は、御空を揺さぶり五臓六腑にまで鳴り渡った。いつの間にか、私を取り囲んでいた髭の片方が、上気した私の頬を軽い調子で叩いていった。  龍は、この研究所では一番の古株であった。  そしてまた、一番の長寿でもあった。龍の寿命がおおよそ二百年のところ、彼は二百八十歳程度であったらしい。  龍は気高く、賢く、知恵深く、思慮深く、しかし近寄り難いかと思えばそのようなことはない、言葉を交わしてみれば、話すのが好きで、聞くのが好きで、物好きで、そして龍の中でもこと風変わりな気質をしていた。  龍は、よく「人間」の話を聞きたがった。好きなもの、嫌いなもの、生き方、在り方、倫理観、価値観、ありとあらゆることを。しまいには人間の方が答えられなくなって、ライブラリに駆けていくこともしばしばだった。  龍はまた、「龍」のことについてもよく話して聞かせてくれた。もはや飛ぶことの叶わない空を見上げながら、その視線で鳥の軌跡を辿りながら、ひとつ。またひとつと。  そう、煙の話を聞かせてくれたのは、他でもない彼であった。 「多くの龍は老いを悟ると、体の効くうちにあさまへと向かう」  老成した龍の多くは、火を吹く山の火口に自ら身を投げ、最期を遂げるという。龍独特の生態だ。頷いた私を見ると龍はいっときの間を置き、首を傾げて芳しい大気を吸い込んだ。あれはたしか、二年ほど前のことだったか。 「自らを焔に焼べる。体は燃え、やがて白い煙となる。煙は登り、雲となり、雨となり落ちる。落ちたそれはやがて体を得、再び龍の形となるのだ。龍の死生観だな」 ――つまり生まれ変わるために死ぬのだ、と。  死と生が表裏一体のその在り方は、いかにも空と森に棲む生き物然として感じられた。それでいて人のそれすら越えていくような、あまりにも圧倒的な死生観に、ああやはりこれは並の生き物では無いのだ、という恐怖にも畏敬にも似た感慨が込み上げた。  それではこの龍は、火の山に赴かなくてもよかったのだろうか? ああいや違う行ってほしかったと言っているのではなくて、そうではなくて人間に付き合わせてしまっているのだろうかと気になって、私としてはずっとあなたを見ていたいのだけれど、でも、云々。しどろもどろにそう訪ねると龍は、その艶やかな髭をぐるりと回し「無論そのつもりであったのだが」と鳴いた。 「昔、どこぞの物好きが」  眼は瞬きもせずに、私をその漆黒の中心に据えて深い色で光った。その色が示す感情を推し量りかねて、私はただ言葉の続きを待ったものだった。 「幾度も訪ねては懇願したのだ。その死の際まで姿を見ていたいと。何故なら龍は美しいから、と」  地響きのように声を轟かす龍を見上げて、知らず私は頷いた。「どこぞの物好き」を私は知らないが、きっと私も同じことを言う。 「厭な心地ではなかった。なるほど面白い話だ、とも思った。故に、こうしてここにいる」  なるほどこの龍も「どこぞ」の誰かと同じ、相当の物好きらしい。牙の除く口元を、いっそう貴い気持ちで仰いだ。            ◇◇◇  果てた龍の体は質量を失くす。元より空を飛ぶ生き物であるから、見た目とは裏腹、彼らはさほど重くはない。脱け殻ときたら、大人が一人で運べてしまうほど。  骸はそれでも八人の研究員たちによって、丁重に火葬場へと運ばれた。火葬場は研究所の中でもいっとう見晴らしのいい、尾根から張り出した崖の上にある。炉の中へ丁寧に龍を安置し、燃料をくべ、温度設定を済ます頃には、蕭々と雨が降り始めていた。予報の通りだった。 ――設定温度、千二百度、燃焼準備完了。  無線が事務的にこだます。千二百度。火口のそれと同じ温度だ。死んだ龍はいかなる場合も解剖せず、標本にもせず、ただそれが野にあった時と同じ通り、火口と同じ温度で焼くのが決まりであった。それが晩年、人と共にあることを容赦した龍への、最後にして最大の敬意だ。 ――計算完了。燃焼完了まで二時間二十分五十六秒。 ――総員待避確認。閉扉開始。  外へと通じていた扉が、軋んだ音を立ててざりざりと閉じられる。次第に暗くなる炉の中には、動かなくなった龍がいた。骸だというのにその体は、生前となんら変わらぬ畏敬を抱かせた。鱗は雨雫を反射して、未だちらちらと瞬いていた。伏せた瞼は白く細い睫毛が縁取って、今にもその双眸が望めそうな気配がした。  美しいままだった。死んでいることが、信じられない有様だった。  やがて、扉は閉じられた。 ――燃焼開始。 「……嗚呼」  ずっと口を閉ざしていた先輩が、すぐ隣で不意に呻く。 「往ってしまうな」  たったその一言が、鉄の刃の鋭さで心臓を抉った。もはや取り返しなどつかないのだと、閉じた扉を凝視する。嗚呼、と私も呻いた。苦くて痛くて熱いものが、喉元をどうしようもなく圧迫した。            ◇◇◇  身震いした龍から零れたそれは、西日と踊りながら森に落ちた。  あ、と思わず上げた声に、龍は歩みを止める。私は小走りに掛けると、それが着地したと思しき辺りにしゃがみこんだ。目当てのものを土の上に見つける。  龍の鱗だ。  てのひら大の、丸みを帯びた鱗をそっと両手に掬う。蜜色の光が斜めに差して、かつて生き物の一部であった断片の輪郭をあらわにした。表面は不規則にちらちらと照り、青緑をいっそう深くした。手の中に湖を湛えているようだった。 「また落ちたか」  重さのほとんど感じられないそれに、龍は厳かな調子でひとりごちた。  龍の鱗は生え変わらない。若い龍の鱗はきちんと揃っており、またその見目も滑らかで目映く光るという。年月を経るごと――すなわち龍が老いるごと、鱗は少しずつ磨り減って輝きも鈍くなり、やがて一枚、また一枚と剥がれていく。  少し顔を上げて、髭を揺蕩わせる龍の体を見やった。落ちた鱗は、研究所内のラボラトリに届け出るのが決まりだった。あわせて、龍の体に異常があればその報告も義務付けられている。だが当の彼はと言えば、袂を分かった体の一部に興味を無くした様子で、木漏れ日の中で軽やかにその身を揺らしている。とりわけ報告すべき事項はないらしい。  視線を掌に戻す。今さっき落ちたそれはやはり、輝きは鈍く、撫でればざらざらと傷に触れる。まさに年をとった龍のものだった。体がここまで至るのに、二百八十年の生があったのだ。かつて若々しかった一匹の龍があちこちに傷をつけ、そうして今、私の目の前で鱗を落としている。その歳月が、この掌に収められている。 「呉れてやろうか」  弾かれたように顔を上げる。  黒い眼が、ちかりと瞬きながら私を見下ろしていた。予想だにしなかった問い掛けに、鱗と龍とを、交互に見ながら口ごもる。龍は擡げた頭を少し傾け「なに、随分と熱心に見詰めていたからな」と鳴いた。 「たったの一片だ。たったの一片くらい、ラボラトリの物好き共に渡さずともよかろう」  いいのでしょうか。尋ねた声は少し震える。他でもない、私がいいというのだぞ、と龍はまた鳴いた。  掌を見る。それから龍を見上げる。鱗の一片一片が、削り出された色硝子が嵌め込まれたような、それが旭影に映え薄く透き通るような、神々しさすら覚える姿を見る。かつてその断片だったもの、彼が生きた道程を、手の中でそっと握りしめる。 「大事に、します」  やっとのことで口にした言葉に、龍は長く長く、喉を震わせた。            ◇◇◇  緑青。  その美しさゆえ、色を称える名を冠された龍。  自ら焔に抱かれるはずだったその死期を、龍としての在り方を、曲げることを容赦した龍。  今際の際で人と在ることを選んだ、尊大で、寛大で、そして物好きな龍よ。  世界の始まりから終わりまで、ずっと生きていくみたいだと思っていたのに。例え私が死んでも、世界が滅びても、ずっとこの静かなサナトリウムで、空を見上げて髭を揺蕩わせているのだろうと思っていたのに。私はまだ、貴方と出逢って四年と十ヶ月と十八日しか経っていないのに。  たったの鱗の一片を残して、貴方は居なくなってしまうのか。  空には灰色の緞帳がかかり、絹糸の雨を降らせていた。火葬場からは白い煙がたなびく。火口と等しい温度の炎が、きっと今頃、龍の骸を抱いている。それが余すところなく、全て煙へと姿を転じるように。煙となり雲となり雨となった体が、また龍として生まれ出ずることができるように。  涙が遮る視界へ、空をいっぱいに収める。煙は細く長く、時に風にうねり、まるで生き物のように上空へと登っていく。龍みたいだ、と思った。飛んでいる龍を見たことはまだ無いけれど、きっと龍が飛ぶとしたら、あのように飛ぶのだろう。自由に、自在に。  緑青。美しい龍よ。また龍になるため、雨になるため、雲になるため、今煙となっている龍よ。久方ぶりの空に、その身を悠々と泳がせているだろうか。  長く長く、喉を震わせているだろうか。
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