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第1章 -1「相模湖から」
目の前の暗闇を両手でかきわける。学校の講堂の壇上にかけられている、分厚い黒の緞帳(どんちょう)をかきわけるのに似た重み。
これが夢だ、なんてこと知ってる。涙で頬が濡れてるってことも知ってる。
何度も何度も繰り返し見てきた悪夢だ。
夢の中の「その人」には顔がない。ただ輪郭と額にかかった前髪と口があるだけ。
顔も、表情も、言葉も、なにもかもを忘れたのに。
それなのに、ときどき、本当にときどき、こうして水底から泡が浮いてくるように、夢の中に姿を現す。
「自己嫌悪」
思ったことが言葉になって空中に漂う。
重いまぶたを持ち上げると、カーテンの生地を透かして朝の白々とした光が部屋に入り込んでいる。
見上げる天井の、ほんのりとした木地の色。
視線を巡らせれば、まだ青い暗闇に沈んでいる四畳半の和室。勉強机とベッドと本棚、クローゼット代わりの押入れ。
9歳のときにこの家に来てからずっと、この空間だけが私の居場所だ。
ベッドヘッドの棚を手探りして、ティッシュボックスからティッシュを引き出す。目元を拭うと、しっとりと湿る感触。
現実では泣くことなんてないのに、夢で泣けるなんて不思議だ。
現実では思い出すことなんてないのに、夢に見るなんて、なんか未練がましくて自分がイヤになる。
「忘れていいよ」と言ったくせに、忘れさせてくれないなんて卑怯だ。
──もう顔も思い出せないのに。
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