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第1章 -2「相模湖から」
私の記憶は、8歳以前のことが曖昧だ。
とても怖いことがあったことを覚えている。
泣いて泣いて、泣き疲れても泣いた。
怖くて怖くて怖くて、不安で不安で不安で。
泣き止んだら、絶対に失いたくないものを失ってしまいそうで。
泣き止んだら、「失いたくない」って気持ちが誰かに届かずに、そのまま失ってしまいそうで。
泣くことしかできなかった。
でも、結局、私は泣き止んでしまったんだと思う。
気がついたら、大きな黄土色の家の前にいた。
大きな男の人が隣りにいて、大きなドアを開きながら「いい子にして、ちゃんと挨拶しなさい」と言った。だから、ドアが開いて、そこに立っていた女の人に「こんにちは。まいです」って挨拶したのだ。
「はい、こんにちは。ちゃんとご挨拶できて、いい子ね」
「まいちゃんっていうの? いいお名前ね」
私が挨拶をしたら、みんな「いい子ね」「いい名前ね」って返してくれる。
でも、その人はなにも返してくれなかった。ただ、赤い目をして、泣いているような、でも怒っているような顔で、私をじっと見るだけ。その視線が恐くて、私は男の人の後ろに隠れようとした。
後ずさる私に気づかず、振り切るように身体を離した男の人は、靴を脱いで玄関に上がり、それから私の腕をつかんで靴を脱ぐように促す。
「今日からここが麻衣の家だよ。麻衣は『立花麻衣』になったんだ。僕は麻衣のお父さん、僕の奥さんが新しいお母さんだ。『お父さん』『お母さん』って呼んでいいからね」
私を見下ろして、ほがらかに笑う男の人の弾むような口ぶり。
びっくりした。「わたしのおかあさんは? おにいちゃんは!?」って尋ねた。けれども男の人は「麻衣はこの家の子どもになったんだから、前の家のことは忘れなさい」って言うだけだった。
たぶん私はまた泣いたと思う。
玄関の高い高い天井がぐるぐる回った気がした。
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