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第1章 -5「相模湖から」
その日は、放課後、先生と「お母さん」の話し合いがあるとかで、私は教室で終わるのを待っていた。しばらくして、先生といっしょに教室に入ってきたおばさんは、「お母さん」の顔でにこやかに私の腕を取った。
「前の学校で遅れていた勉強も追いつきましたし、お友だちもできたようですし。学校のほうは問題ないです。早くなじめてよかった。いい子ですよね、麻衣ちゃん」
「ええ。片親で育ってますし、あんな事件もあったので心配していたのですけど、家にもすぐになじんでくれました。夫がかわいがってますし、私も本当の娘のように思ってるんですよ。『愛してる』という気持ちが伝わっているのかもしれません」
「お母さん」の顔を見上げてしまったのは、「ウソ!」って思ったからだ。
お兄ちゃんは「ウソついちゃダメだよ」っていつも言ってた。
「麻衣がボクにウソをついたら、ボクは麻衣の言ってることのなにがホントウで、なにがホントウじゃないのか、わからなくなってしまう。ボクは麻衣じゃないんだから、麻衣が言ってることからしか、麻衣がどう思ってるのかとか、麻衣が困ってることとか、わからないんだから。ボクは麻衣のこと、間違いたくないんだ。だから絶対にボクにウソをつかないで」って。
お兄ちゃんの言うとおりだって思った。
「お母さん」がウソをつく人だってわかったら、私は「お母さん」の言ってることの、なにがホントウで、なにがホントウじゃないのか、わからなくなってしまう。
困惑しながら見上げた私を、「お母さん」はニコニコと笑顔で見下ろして、「さあ、帰りましょう」と言った。
帰り道、「お母さん」は私の腕をつかんだまま、無言で歩いた。私は大人の歩幅で歩く「お母さん」に引っ張られて、転ばないように下を向きながら、ひたすら足を動かすだけだった。だから「お母さん」が立ち止まるまで気づかなかった。
大きな家の大きな門の鉄の柵にすがりつくように、家の中を見ている小さな人影。
「……お兄ちゃん?」
──来てくれたんだ! 迎えに来てくれたんだ!! やっぱりお兄ちゃん、来てくれたんだ!!!
そんな気持ちだけでもういっぱいいっぱいになってしまったから、心いっぱいに叫んだ。
「お兄ちゃん!」
──お兄ちゃん!! お兄ちゃん!!! お兄ちゃん!!!! 麻衣、待ってた!!!!
駆け寄ろうとしたら、腕が動かなくて、引き止められた。「お母さん」の指が、私の腕に食いこむくらい強くつかんでいた。
「あなた、この子の兄弟?」
「お母さん」がお兄ちゃんになにか言ってる。
お兄ちゃんのところに行きたいのに行けないもどかしさとつかまれた腕の痛みで、「お母さん」とお兄ちゃんがなにを言ってるのか、わからない。
──早く放して! お兄ちゃんと行くの!!
「お兄ちゃん!」
悲鳴のように上げた声に答えて聞こえてきたのは、震えるように小さな声だった。でもなぜかそれだけはよく聞こえた。
「ごめん、麻衣。ここで……よくしてもらえよ。ちゃんと言うこと聞いてな」
駆け去るお兄ちゃんの背中が涙の中で揺れた。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん!!」
泣き叫ぶ私を、「お母さん」は無理矢理家の中に入れた。
引きずるように2階の部屋に連れていかれて、閉められたドアがカチッと音を立てたのを覚えている。
ドアノブをどんなに回しても、それは開かなかった。
泣いて泣いて泣いてぼうっとした頭のままドアの傍に座っていたら、玄関のドアが開く音がした。
「お父さん」が帰ってきたんだ、と思った。
「お母さん」の声がして、「お父さん」が大声でなにか言って、それから家が揺れたように感じたくらい、バタンと勢いよくドアが閉まる音が聞こえた。
なんだかとても悪いことが起こっているような気がして、震えが止まらなかった。
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