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第1章 -6「相模湖から」
それから……それから冬が終わって、春になって、私は小学4年生になった。
「お父さん」と「お母さん」と私の暮らしは、最初の頃と変わることはなかった。
夏休みは毎日、塾へ通った。「お父さん」が「行きなさい」と言ったからだけど、「お母さん」と家にいるよりはよっぽどよかったから、朝早くから夕方まで塾で勉強した。
秋になって、暑かった夏を忘れる頃。
インターホンが鳴る音がして目が覚めた。
部屋の中はまだ薄暗くて、「こんな朝早くに誰が来たんだろう?」って思った。
急いでキッチンのほうから玄関へと移動する「お母さん」の、いつもはしないスリッパの音が聞こえて、ドアの2カ所のロックとドアチェーンを外す金属的な音が吹き抜けに響いた。
玄関に入ってくる何人もの人の靴音。「お父さん」のスリッパの音。
知らない男の人の声や「お父さん」の怒鳴り声。「お母さん」の悲鳴。
ベッドを抜けだして、足音を立てないように、部屋のドアのところまで歩いた。ドアノブを小さく回して、細く開いたドアの隙間から外を覗く。夜明け前のほの暗さを映した吹き抜けの窓しか見えなかったけれども、玄関ドアが何度も開いたり閉まったりして、たくさんの人が出たり入ったりしていることだけわかった。
一度、誰かが階段を上がってくる気配がしたけど、「お母さん」の「娘が寝てるんです! 起こさないで!」という叫びに、途中で下りたようだった。
目の前で何が起こっているのかわからなくて。でも恐くて。
私はドアを閉めると、慌ててベッドに潜り込んだ。
これは悪い夢で、目が覚めたら「いつも」に戻っていると信じて……。
いつものように歯を磨いて、制服を着て、時間割に合わせた教科書やノートを詰めたランドセルと体操服が入ったサブバッグを持って、1階に下りた。
玄関にランドセルとサブバッグと制服の上着と帽子を置いて、ダイニングルームに入る。テーブルの上には冷めた玉子焼きとハムとポテトサラダが載ったお皿。その隣に、ビニールに入ったままの食パンとトースター。
いつもは「お父さん」と「お母さん」と一緒に食べるのに。「お母さん」はリビングで誰かと電話で話している最中だった。
電話が終わるのを待ったけど、「お母さん」の涙声は大きくなったり小さくなったり、途切れるようすはない。
袋から食パンを1枚出して、トースターに入れる。
焼き上がりのチンという音で、私がココにいること、「お母さん」か「お父さん」が気づいてくれるんじゃないかと思ったけど。
「お父さん」は現れることなく、「お母さん」の電話も終わらず、私はひとりで朝食を食べて、ひとりで学校に出かけた。
「お父さん」の姿が見えなくなって、3日ほど経った夜。
「お母さん」は大きなスーツケースを2つ、玄関に置いた。
階段の下に立ってそのようすをただ眺めていた私を、長い間、じーっと見つめたあと、「お母さん」は2階の私の部屋に上がっていった。聞こえてきたのは、引き出しをガタガタ開けたり閉めたりする音。
間もなく大きな紙袋に私の服を詰め込んで出てきた「お母さん」は、玄関先に横付けされたタクシーのトランクに、運転手さんの手を借りて紙袋とスーツケースを詰め込んだ。
次に私の腕をつかんで放り込むようにタクシーの座席に座らせると、私とは距離を取って座り、運転手さんに行き先を告げた。
夜の闇の中を走るタクシー。まばゆいほどの街の灯りがどんどん後方へ流れていく。
車内はひと言の会話もなく、運転手さんがかけているラジオから音楽と低い男の人の声がかわりばんこに聞こえる。
そのあたりで、私は眠ってしまったらしい。
目を開けたら、畳の上に敷かれた布団に寝かされていた。
知らない天井、知らない部屋、知らない家。
そこは「お母さん」の実家で、その日から私が暮らすことになる家だった。
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