#1🐣

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#1🐣

 最悪な日ってあるよね。例えば止んだばかりの雨に油断して傘を持たずに家を出たら瞬く間に大雨になったり、折り畳み傘があるから大丈夫って調子に乗ったら傘の骨が折れていたり。念入りにコンシーラーで肌を整えたのに、汗と湿気のダブルコンボでドロドロの肌になりかわっていたり。  いつもは行かない食堂で飲んだ味噌汁が海水並みにしょっぱかったり、とかさ。  そんな最悪な日は間違っても誰かに顔を覗き込まれてはならない。ましてや衣笠に話しかけられるなんて以ての外だ。  だってこんな顔を見られたらどんどん悲しくなるだろう? 「不味いね、この味噌汁」  整った眉がきゅ、とひそめられた。昼休み前の食堂は閑散としていて、期末試験の打ち合わせをする教授や休憩中の守衛さんがぽつりぽつりと座っているくらいだ。それだというのに、わざわざ俺の前に座ってきた男がいる。  向かいに座る男の名前を、俺は知っている。 「おぇ、しょっぱ。いつもはもっとマシなんだよ?」  衣笠だ。人文の衣笠だ。  高校時代からきらきらとしたオーラを振りまき、人に囲まれ、にこにこゲラゲラ楽しそうに廊下や教室で群になって騒ぎ立てていたあの衣笠だ。  毎日のようにロッカーや靴箱に手紙を入れられていたあの衣笠だ。怨恨の手紙じゃない。そんなの入れるのは俺くらいだ。大多数はハートマークがついてるほう。今時ラブレターなんて見ないって? そんなことないんだよ。バレンタインなんて衣笠のロッカーからはチョコがあふれかえって廊下に落ちていたくらいだ。 「斎間くんいつもは食堂使わないもんね。ついてないね~」 「は? なんで知ってんだよ、怖えよ」 「せっかく斎間くんと二人でランチできたのにこれじゃあなぁ。あ、じゃあ今度何か驕るからうまいもん食べ行こ」 「行かないし、お前が勝手に俺の前に座ってきただけだし、話聞いて」  衣笠はけらけらと楽しそうに笑ってた。俺はそんな衣笠と絶対に目を合わせないように、斜め下にずっと視線を落としていた。  おかげで衣笠の骨ばった大きな手がよく見える。白くて肌が綺麗で、筋張っていて、指が長くて。水仕事なんてやったことないんじゃないかってくらい綺麗な手だ。毛の字も見えないくらいつるつる。いいな。 「そういや斎間くん交差点のところのファミレスでバイトしてるらしいね」 「してない」 「ちょっと、なんで嘘つくの。俺こないだ行った時厨房入ってるの見たよ」  なんなんだよ。話しかけんなよ。てか来てたのかよ。  今日は人と話したくないし、人に会いたくないし、人に見られたくないし、最悪の気分だというのに、追い打ちをかけるように衣笠が次から次へと話しかけてくる。  だいたい俺と衣笠はこんな馴れ馴れしい会話をするような仲じゃない。ただ同じ高校出身だっただけの友人にも顔見知りにも満たない存在だ。それも一度も同じクラス、同じ授業にもなったことのない完全な他人。 なのにぼっちに慣れない群れたい衣笠は入学式で俺を見つけるが否や、馴れ馴れしく絡んできた。ぎょっとした。あの衣笠じゃんって、心臓止まった。  外見だけは一人前に大学デビューを果たしていた俺は髪色は明るくなっていたし、眼鏡もコンタクトに変えていたし、なによりバチバチにメイクしてた。扱いにくい一重まぶたからアイプチでどうにか二重まぶたを作り出していた。それだけしてたんだから、話したこともない高校の同級生って普通は気がつかないと思う。 ましてや俺と衣笠だ。ヒエラルキーでいう頂点と最下層の、接点もない同級生だった。 どうしてあの時衣笠が即座に俺に気がついたのか、正直今でも謎だった。 「斎間くん何曜にシフト入ってるの?」 「知らん」  何の邪気もない声にイラっとしてしまう。俺なんかに構わなくても友達なんて大勢いるじゃないか。どうでもいいから話しかけないでほしい。俺の前に来るんじゃない。俺の顔を見るんじゃない。  雨と湿気で俺の髪の毛はぺちゃんこになって額に張り付いているし、メイクは汚く崩れている。こんなの誰にも見られたくない。崩れたファンデーションが怖くて自分でも鏡をのぞけないんだから。  一方、衣笠のセットした気配もない髪は今日も綺麗に整っているし、メイクをせずとも凹凸のない肌はまっさらでつやっつや。喧嘩売ってんのか?  衣笠は目立つ。人懐っこい性格に加え、その容姿がとてつもなくいいからだ。  男は衣笠のような人気者と繋がりがあることを見せつけたいがために、これ見よがしに衣笠の名前を呼びたがる。腹立たしい友人アピールだ。  女は衣笠を見つける度にこそこそきゃっきゃと盛り上がり、何人かの狩人のような女は衣笠に張り付きに行く。大して面白くもない話を「やっだぁ~」とか大袈裟に手を叩きながら聞いて、わざとらしいボディタッチも忘れない。  それだけでも十分腹立たしいが、何よりも腹が立つのはその容姿の良さじゃない。  こいつがまったくもって人の容姿に頓着しないところだ。  カメラを向けられれば変顔するし、白目でも向きそうな勢いでげらげら笑う。味噌汁が不味ければ顔面をくしゃくしゃにして舌をだした。髪型にこだわりはないし、ファッションにだって興味がない。今日だって、ただのジーンズにどこにでも売っているような黒のTシャツだ。  むしろ好感が持てるかもしれないのは衣笠の人徳だが、だからこそ俺はこいつが気に入らない。だって顔もよければ中身もいい人間の完成じゃん。納得いかなくない? 俺のように性根腐りきって、その腐り具合が見た目にも現れちゃってる哀れな人間もいるんだよ。 「自炊怠いし、斎間くんがシフトに入ってる日は俺食べ行こうかな~」 「破産するぞ」 「社割とかないの?」  あってもお前に使うかよばーか。  脳内で毒を吐くと、飲むだけで動悸に襲われそうな塩辛い味噌汁を無理矢理流し込んだ。マジでまずかった。吐きそうになるのを堪えて、申し訳程度にグラスに入っていた水を一気に飲み干す。塩分は少しも薄まった気がしない。  とにかく速やかに衣笠の前から立ち去るために、がたがたと食器を整えお盆を持って立ちあがる。衣笠のほうは見なかった。  だけど、視界の端に衣笠の男らしく少しごつごつした手が目に入ってしまった。手の甲はすべすべしていて、それでいて血管が浮いているのが男性的で。そんな手が動いたかと思うと、ぱちんと音を立てて箸が空中を掴んだ。
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