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鉄筋コンクリートの十二階建マンションが見え、立体駐車場に入る。住人専用入り口から、水音が穏やかに響くエントラスを抜け、エレベーターに乗り込む。六階で降り、部屋の鍵を開けると、花梨の靴はすでにあった。人の気配に反応し、廊下は一瞬で明るくなる。
「トキ、お帰り。ガソリン入れて来た?」
「ただいま。入れて来た」
花梨は鯖が乗った皿を持っている。俺を見て、ダイニングテーブルに皿を置く。肩に付かない長さの茶髪が揺れた。
鯖の塩焼き、ジャガイモと鶏肉とアスパラガスの煮込み、玉子豆腐、小皿はひじきと人参の和え物が並んでいる。
「先にご飯食べちゃお」
「うん、貰う」
上着を脱ぎ、ダイニングチェアーに掛け、食卓につく。
「今日、忙しかった?」
「いや、いつも通り。来週の術前説明を山地先生がしてくれたから、再来週分は俺が担当する予定になるかな。受け持ち患者を何人か回って、処方出して帰って来た」
「そう。明日は手術日だよね。遅くなりそう?」
「そうだな。同じぐらい。あ、日曜は日直。その晩は内科の先生と晩御飯に行くかも。そうなったら、晩飯いらない」
「分かった。また連絡して」
鯖に箸を伸ばし、身を裂く。皮が香ばしく、パリパリと音を立てた。白身を口に運ぶ。塩味と脂の少ない淡白な身が口内で解ける。
「……明日の朝、また早めに出るから」
俺の言葉に花梨はふっと気を抜いたような表情になった。
「例の禁煙治療ですか? 経過は順調ですね、常盤先生?」
「先生って言うな。プロトコールもあったもんじゃないよ。ただ、海を見てぼーっとしてるだけで、やっと一本まで減らせた。近々、禁煙も完了するかもしれない」
「それは良かった。中々最後の一本がやめられなくてぶつぶつ言ってたでしょ? なんか変わった事あったの?」
探るような瞳に頷く。
「うん、あった」
「何?」
「先週、長谷川綺咲っていう子と海に行った」
花梨は笑顔をサッと引いた。目は光を失った。
「長谷川綺咲……って、長谷川ちゃん? 私が勤めてるあかつき書店の?」
「そう。ガソリンスタンドでも働いてるよ。そこで知り合った」
「知り合ったって……、トキがあの子に興味持ったって事?」
「いや、興味を持たれたのは俺の方」
「なんで? だってトキはーーー」
手を軽く振って、花梨を睨むように見やる。
「そこから先は言わなくていい」
言葉の先は容易に想像が出来た。
だって、トキはーーー。
「長谷川さんはなんでトキに興味を持ったの? 困ってるのを助けたとか、何かきっかけがあったの?」
「いいや。ただの客で、俺が死んだ兄貴に似てるらしい」
「亡くなったお兄さん……」
花梨はため息をついて、首を振った。
「似てるだけで、声をかけて来たの?」
「違う。俺が先に声をかけた」
「トキから……。なんで?」
「向こうがずっと見て来たから、と」
右目尻の黒子とぎこちない笑顔。
外見の特徴は黒子以外これといってない。目も小さく、平凡な顔つきをしている。美人でも可愛くもない。自発的な行動をするタイプではなく、部屋の隅でひっそりと、いるのかいないのか分からないタイプ。控えめで気配を消しているようにも感じる。しかし、その雰囲気はあえてそうしているようにも見え、だからこそ、気になってしまう。
「なんとなく、かな」
妹の真香が生きていたらあんな感じだったのだろう。
先に見ていたのはキサちゃんだったかもしれないが、その視線に捕まったのは俺だ。そう、まんまと捕まった。あの、深くて暗く重いのに熱を持った瞳に。
気づかない振りをすれば良かった。それなのに、そうさせない自分が彼女を海に誘った。
「……女として興味を持ってるんじゃないよね?」
花梨は疑うように俺を見ている。
あの一言を俺に言わせようとしている。
「性的に興味はない」
花梨は頷いて、なら、いいの、と視線を食事に戻した。
だって、トキはーーー、アセクシュアルだもんね。
頭をよぎったカタカナ。何にでも名前を付け、分類したがる人間を納得させるもの。カテコライズすると安心できる気持ちが俺には理解できない。枠に収めて、名前をつければその生き物を理解し支配できるとでも思っているのだろうか。
人の傲慢さに辟易としてしまう。
―――大丈夫、私、恋愛はいらないから。側にいられるだけでいいの。
そう言った花梨の言葉を信じられなくなったのはいつからだろう。彼女が求めているのは落ち着いた生活基盤、つまりは経済力で、異性としての役割を持つ俺ではない。俺たちの間に恋愛関係は存在しない。束縛もない、肉体関係もない、生活を共に送る、ただの同居人。
花梨にその事を咎められた事は一度もない。
その筈なのに、何故か、この空間をふとした時に息苦しく感じてしまう。
「トキ? 大丈夫? 鯖の味付け薄かった?」
「いいや、丁度いいよ」
再び口に運んだ鯖はさっきまではっきりとしていたのに、なんだか曖昧になってしまった。
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