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あかつきに兎が跳ぶ
海に行こう、と最初に彼は言った。その声は、靴に入り込んだ砂のようにざらついていて、私に違和感を与えた。
三歩前の彼は裸足で、ためらいなく砂を散らしている。
さざ波は足跡を読み取り、ゆるやかな波紋を残した。その上に、朝陽が髪の薄影を落とす。不均等な模様に、ゆらゆらゆれる影。ふたつはかさなって、刹那の美しさを描いてゆく。
とぎれることのない波の響き、たゆたいながら流れる潮の香り。みずみずと揺れる光のカケラ。
それら受けとめて、踊る髪を捕まえ、そっと耳に掛けた。
数日前、閉店間際のガソリンスタンドに彼はやって来た。
深緑のジープが停まって、私がいらっしゃいませ、を言うよりも早く、運転席の窓が下がると、彼は口を開いた。
「海に行こう」
車内からは、エド・シーランの「シェイプ・オブ・ユー」が流れていて、意識をそちらに奪われた。とっさに、今誘われたのが自分だったのか、と耳を疑った。
レギュラー満タンですか、と、店員としての役割を果たそうと口を開くと、彼は私の名札を見た。
「長谷川綺咲さん? きさきって読み方あってる?」
いつもこっそりと見ていた涼しげな目元が向いている、と、心臓が激しく騒ついた。
「ナンパですか?」
虚勢を張った声で、弾んだ気持ちを隠し、一般的であろう大人の女性の対応をした。
彼は薄い唇を上げ、軽く笑った。
「うん、ナンパに近い。でも、先にずっと君が俺を見てなかった? 勘違い?」
視線は本人に知られていた。
「……勘違い、じゃ、ないです」
「そう。なら、良かった」
彼はメモ用紙に電話の番号とメッセージアプリのIDを書いて、差し出した。
すべすべとしたメモ用紙は白く、私が本屋で使うペラペラなそれとは違って上質だった。そして、いつものように「レギュラー満タンで」と、目を伏せて言った。
晩秋の物寂しい夜で、ふだんは途切れないはずの国道の車の行き交いが減り、目の前の車のエンジン音だけが、やたらと響いていた。私がメモ用紙をポケットに入れたのを確認すると、彼はエンジンを切った。
バイトが終わって、アパートに帰り、強ばった指で番号を押した。発信音が鳴るたびに、緊張がまし、彼が出たことにホッとした。
電話越しの声は、実際よりも低く聞こえた。
名前を常盤岳。
歳は32歳。職業は、医者。
それ以上の情報は追い追い知っていく方が楽しいよ、と互いの質問ばかりの会話は一旦遮られ、彼はざらついた濁声で言った。
海に行こう、夜明けの海に行こう、と。
涼しげな見た目に反し、一度聞いたら忘れられないような声だ、と思った。
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