あかつきに兎が跳ぶ

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 午前四時半は朝なのか、それとも夜だろうか。ひっそりとした闇が陽の出を粛々(しゅくしゅく)と待っている。  築二十年弱のしょんぼりとしたアパートを後にし、待ち合わせのコンビニに向かう。指先が凍え、ダウンジャケットに両手を入れる。息を吐くと白い水蒸気が広がり、冷えた空気が肺に入った。  途切れ途切れのバイク音が鳴っては止み、鳴っては止み、を繰り返し、息継ぎのようにポストに音が投函されている。新聞配達だろう。  朝二時半出勤の六時退勤、時給千円。  時間帯の割に、安い時給だ、と求人誌で目にした数字が浮かぶ。朝が苦手な私にはこの時間帯は難しい、とすぐにページをめくった、その音が近づいてくる。  住宅街の家々はまだ寝静まっており、通りに人は居ない。車二台がギリギリすれ違う程の道幅を国道沿いのコンビニに向かって歩く。  この静かな港町は、北半分は埋め立て地だ。  沿岸部には造船所が立ち並び、赤と白の巨大なクレーンが空に伸びている。漁師、造船、農家が多く、スーパーにもよく活魚が並んでいる。中心地には大型のショッピングモールがあり、国道沿いにはコンビニ、飲食店、本屋、ディスカウントショップ、と車さえあれば生活には不便しない。  里山もあり、海も近い。適度に楽しむ自然と生活環境のバランスが整った地方の中核都市。  人々の交流も地域によってばらつきがあるものの、隣人同士も名前と家族構成を把握するぐらいの間柄で、付かず離れずの距離感がちょうど良い街だ。  国道に出ると目的地のコンビニは、青白い光でアスファルトを照らしていた。道に車はパラパラとしか走っていない。  駐車場に深緑のジープが停まっている。運転席に涼しげな目元の男性が座っており、彼の存在を意識すると、緊張した。  深呼吸をして、ゆっくりと車に近づき、窓を覗く。  窓ガラスが下り、彼は薄く笑った。 「おはよう、3日ぶり」 「おはよう、ございます」 「どうしたの、緊張してる?」 「は、はい」  声が上擦って恥ずかしかった。 「あの、男の人と出かけるのが久しぶりで」 「そう。その割には簡単に俺の誘いにのったよね?」  意地悪な聞き方だな、と思い、彼の顔を見ると涼しい目元を細めているだけで感情は分からなかった。 「えっと、常盤さんの事を知りたくて」 「お、正攻法で来た」  茶化すような物言いに、初めて声を掛けられた時のような違和感を抱いた。  嘘は言っていない。  常盤さんの事を知りたい、この気持ちに名前はないけれど、彼を知りたいと思った。車から流れている音楽聴き、他には何を聴くのかも尋ねたくなった。 「出掛けるのは初めてだけど、スタンドで何回も顔を合わせていたから、まるっきり他人な気はしないね。まあ、乗って」  彼は助手席を軽く指差して、私は頷いた。  車の反対側に向かい、扉を開けた。車内に残る微かなタバコの匂いで、彼が喫煙者だと知った。匂いは時に語るよりも確かな情報を運ぶ。そして、懐かしくも悲しい匂いに胸を締め付けられる。 「どうしたの?」 「いえ、あのタバコの匂いがして……」 「タバコ吸うから。やめたいけど、中々やめられなくて」  くゆった匂いは情報も運び、同時に人の思い出も(あぶ)り出す。  六年前の秋にも海を見に行った。  車ではなく、歩いて行った。隣を歩く(せん)ちゃんは、左手にタバコ(けむ)らせ、反対の手は私と繋いでいた。歩きタバコはお行儀が悪い、と言っても、彼はそれを止めようとはしなかった。  涼しげな目元――細目なのに笑うと少し垂れる所ーーが、常盤さんによく似ていた。いや、常盤さんが千ちゃんに似ているのか、千ちゃんが常盤さんに似ているのか。  記憶の中で私がふたりを似せているだけなのか。  六年という時の流れは寄せては返し、記憶を静かに削ってしまう。 「長谷川さん、眠たい? 眉に力が入ってるよ。まだ四時半だからね」  彼はシフトレバーをドライブに入れた。  車は体を軽く揺らし、海に伸びる国道に乗った。ざらついた声は千ちゃんと似ても似つかなくて、他人であると言う事を強く印象付けた。
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