あかつきに兎が跳ぶ

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 私が母方の親戚を頼りに、この町にやって来たのは十二年前だ。  前に住んでいた町は、人の波に揉まれる都会だった。駅の近くの児童施設だったため、車に乗らずとも、コンビニも薬局もスーパーも学校も歩いて行けたけれど、空はくすんでいた。  あの町は酸素が少なかったのではないか、排気ガスばかりを肺に溜め込んで、腐っていくのではないか、と本気で思っていた。  この町に引っ越し、建物が少なく視界が広い事に驚いた。空の面積が広く、クリアブルーがきれいで、肺に溜まった排気ガスを交換すれば少しは澄んだ心に近づけるのではないか、など感傷に浸ったりもした。  海は青ではなく緑に近い色をしている事、潮の満ち引きで海辺の風景が異なる事、潮風の匂いは磯っぽくて話に聴くほどあまり心地よくない事、夜になるとプラネタリウム以上の星が視界いっぱいに広がる事、田んぼは水を張ると蛙がよく鳴いている事―――を、この町に教えて貰った。  そして、陽が昇ると、海と空を光が分断してしまう事は、今、知った。  役目を終えた月が、名残惜しそうに白んだ空に消えてゆく。 「ほら見て、あの白波が立つ場所」 「どこですか」  目を凝らし、常盤さんが指差す方向を見る。  海原に時折、白波が立ち、跳び上るように見えた。 「見えました」 「あれを(うさぎ)が跳ぶって言う。波は不思議だよね。海として海水が集まっていたら、ただの灰色の塊なのに、波が上がると白く見えるんだから。……葛飾北斎(かつしかほくさい)、知ってる?」 「はい、知ってます」 「浮世絵見たことある?」 「……教科書で」 「江戸時代から波は白かったみたいだよ。描いた人は居なくなっても、描いた絵が残ってるから、彼に海がどう見えていたかは分かるのが面白いよね」  泳げないはずの兎が、色だけで波の名前に採用されるなんて不思議だね、と彼は続けた。  常磐さんは波打ち際を裸足で歩いた後、砂を払って靴下を履いた。足首まで海水で濡れていたはずなのに、乾いた砂を踏むと足は水分を失ったようだった。 「海水の方が冷たいと思ってたけど、そうでもなかったな」 「常盤さん、水道水で洗った方がいいですよ」 「このままでいいよ。タオルも持ってないし、今日は手術(オペ)日だから出勤したら、すぐ術衣に着替える。長谷川さんは脱がなかったの?」 「はい、これタイツなので脱げないです」  履いていたタイツと膝上の薄緑のズボンを見た。常盤さんは履いた靴の踵をアスファルトに二、三回落とす。靴底には砂が入り込んでいる。 「ダメだな、やっぱり、最初から脱いでいけば良かった。砂が入り込んで取れない」 「靴底、水道で洗いますか? ありましたよ」 「面倒だなぁ、このままでいいや。車の中に違う靴があるから、履き替える」 「そうですか」  彼は振り返った。 「それより、……俺の事は常盤さんって呼ぶの?」  駐車場に停車した深緑のジープを目指し、歩く。 「常盤さん、32歳ですよね?」 「ああ、電話で話したね。長谷川さんは26だっけ。これ、ロリコンって言われる年の差? 丁度いいよね」 「……ロリコンなんですか?」  常盤さんはいたずらっぽく笑って、肩をすくめた。 「違うよ。ただ、長谷川さんの視線に捕まっただけ」 「私の視線?」  彼を見上げると、また薄く笑った。目が細くなる。涼しげな目元に見えるのは、一重の切れ目だからか。 「そう、長谷川綺咲ちゃんの瞳が俺を捕まえたって、……言葉にすると気持ち悪いな。視線を向けられるだけじゃ物足りなくなった」  言葉に(とも)され、全身に熱が巡るのが分かった。  彼を「ジープの人」と、個別に認識したのは1ヶ月前だった。全油種2円引きの木曜日。閉店間際に給油する車番の421を覚えて、運転席に座る涼しげな目元を盗み見るのが楽しみになっていた。短い髪は癖がなく、清潔感があり、和服が似合いそうなシャープな顔をしている。顎のラインに無駄がない。派手では無いがどことなく落ち着く、知的な雰囲気が漂う。 「トキって呼んで。常盤さん、って堅苦しくて落ち着かない」 「分かりました」 「俺はなんて呼べば良いかな、キサちゃん、とか?」  キサちゃん。 「じゃあ、キサちゃんで」 「あれ? その表情は照れてるの? 可愛いなぁ。キサちゃんよろしく」 「よ、よろしくお願いします」  潮風に(もてあそ)ばれた髪を両手で押さえた。トキさんは目尻を下げ、笑った。彼の笑い方はほんの少しだけ寂しそう。何故か分からないけど、笑う場面だからとりあえず笑っておく、……そんな印象を受ける。 「車に乗ろう。送るよ」 「ありがとうございます」  四ノ宮海岸公園は陽が昇ると、近隣住民が犬の散歩やランニングに訪れ始めた。景観が良い海岸だからだろう。近くには人の手が入った林があり、無数の常葉樹林がぐるりと広場を囲んでいる。広場には遊具が設置されており、枯れ芝が薄ぼんやりとした色の遊具を支えている。秋色に変化した落葉がほうぼうに散っており、絵画に写取(うつしと)れば寂寥(せきりょう)感のある、冬を待つ公園だ。  朝陽を振り返りながら、ジープの助手席に乗り込んだ。タバコの匂いが鼻をかすめる。 「今からバイト? 駅前のあかつき書店だったっけ?」  運転席でトキさんはエンジンを入れた。 「はい」 「本、好きなの?」 「週に一冊、何かを読むぐらいには」 「そうなんだ。それはすごく読むね」 「読むうちに入りますか?」 「入る、入る。俺も実は同じぐらい読む」 「一緒ですね」  共通点を見つけた事に笑うと、彼は、ミートゥー、と軽く返事をした。 「店員に、野田花梨(のだかりん)っていない?」  女の人にしては背が高く、セミロングの茶髪がよく似合う社員さん。きりっとした顔が浮かんだ。はきはきとした喋り方をする人で、私より六つか、七つ上だったように思う。  真夏にも長袖のブラウスを着ている、冷え症な人。 「野田さん、知ってます。お知り合いなんですか?」 「うん、知り合い。良かったら仲良くしてやって」  トキさんは、シフトレバーをドライブに入れた。  車はのろのろと動き始めて、光が照らす国道に向かった。  トキさんの指が曲を選び、メロディーが流れ始める。  声はビル・エバンスで、曲名は知らなかったけれど、千ちゃんもよく聴いていた曲だった。千ちゃんとトキさんは音楽の趣味が合いそう。たった二曲しか聴いていないけれど、選択されなかった歌手の名前を見ても、ほぼ千ちゃんから聴いた事のある、歌手名だったから。  車はスピードを速め、窓越しの海辺を去りゆく残像に変えた。
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