冷たいうねり

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冷たいうねり

 日の出前、午前五時頃。四ノ宮海岸公園に寄って、一本だけタバコを吸う。  二十代の頃は一日で一箱ほど空けていたが、徐々に減らし、今はこの一本で血中が欲するニコチン不足を補うようにしている。  この内海から街の中心に伸びる国道を南西に五キロ進んだ先に橋元記念病院(はしもときねんびょういん)がある。そして、さらに一キロほど南西に進むと自宅マンションがある。  職場と住んでいる場所が近距離で、短時間の車の往復では息が詰まる。  禁煙を目的に当初は違う事を試みるつもりだった。が、飽きっぽい自分が、冬に差し掛かろうとする、布団から出にくい季節に、よもや禁煙外来などとセオリー通りな事を始めるわけもなく、ネットで知った早起きで禁煙が出来るという信憑性の薄い案を試すことにした。  科学的根拠(エビデンス)の低いものほど試しがいがある。  自分を治験体(ちけんたい)のように客観的に、観察するのは好んでする事だ。幸いにもこの方法は体質に合っていたようで、一時間程早く起き、無心で海を見ながら一日のタバコの本数を順調に一本まで減らす事が出来た。だが、そこからは中々減らす事ができない。  たかが一本。されど、一本。  それを削る為に、どうしたらいいのか考えあぐねていた。  医者は手術前に患者に禁煙を促す。全身麻酔後の肺への影響を考慮して、だ。 「やめようと思えば、タバコなんてすぐにやめられますよ」  これは俺が何度も患者に繰り返したセリフだ。その投げた言葉は今、ブーメランのように返ってきた。  タバコの灰を砂浜に落とし、口から吐いた煙が空に消えた。もやが晴れたのを確認して、また口から煙を吐き、空をくゆらせる。そうしていると、陽が昇る。腕時計で時刻を確認すると五時四十二分。昨日より陽の昇りが遅い。徐々に冬至に近づいているのが分かる。  夜明けを迎えた海は、水面が白く輝いている。  風は日に日に冷たくなり、毛先をわずかに揺らす。横の雑木林の葉は秋風に吹かれ、暖色に染まりつつある。そんな地上の変化を、水中の魚達はわずかな水温の変化でしか知ることができないだろう。  風の向きや強さで海は表情を変える。  今日の波は穏やかだ。  立ち上がり、背伸びをする。着ていたマウンテンパーカーに灰皿を入れると携帯が震えた。手に取り、画面を確認する。 ―――今日もあかつき書店で仕事。六時に帰れると思う。 ―――了解。俺はいつも通り。  メッセージを返し、野田花梨(のだかりん)の画面を閉じた。  シーズンオフの十一月中旬の海には誰もいない。  息を大きく吐き、駐車場に向かう。深緑のジープに乗り込み、エンジンを入れ、給油のメーターを確認する。  今日は木曜日。もう一週間経ったのか、と時が流れる速さに驚く。それだけ、日々は仕事に忙殺されている。  先週、いつも給油するガソリンスタンドで、長谷川綺咲(はせがわきさき)という女に声をかけた。俺に向ける視線の意味を知るためだ。  興味なのか、好意なのか、悪意なのか。  一体、その視線の意味はなにか。  女が男に視線を向ける意味は一つではない事を、三十も過ぎれば、嫌という程、知っている。  職業柄、患者の家族かと、俺が橋元記念病院に赴任してきた過去五年分のカルテを(さかのぼ)ったが、該当する患者はなかった。右の目尻に黒子があり、接客中にもぎこちない笑顔を浮かべる女。海に誘うと彼女は、身を硬くした。  色めいた反応ではなかったので、きまりが悪くなり、連絡先を渡して誤魔化した。気があればかけてくるだろうし、俺の勘違いだったら捨てるだろう、と。  リアクションがなければ、知らぬ顔をしてガソリンを入れに行けばいい、そう思っていた。  しかし、意に反して彼女はその日の夜、電話を掛けてきた。  なんとかしてタバコをやめたい俺は彼女の真意も探るべく彼女を海に誘った。彼女はその提案を承諾した。謎解きと禁煙ができるいい理由を得た、と思った。  カーオーディオのボリュームを少し上げ、車を発進させる。
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