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午前中は外来、午後からは病棟で担当患者の診察と臨時手術の対応で時間に追われた。定時は十七時だが、あってないような区切りだ。部長は大体手術に入っているし、上級医の山地先生は週明けの手術予定の患者に術前説明をしている。
業務がひと段落したのは、二十時を回ったところだった。
退勤時間を電子カルテの業務欄に入力し、深緑のジープに乗り込むと陽は沈みきっていた。エンジンを入れ、国道沿いのガソリンスタンドを目指す。
タバコに手が伸びそうになって、我慢し、かわりにダッシュケースからガムを取り出して口に入れる。ブルーベーリー味のゴムを食べているようだと、いつも思う。すぐに味が消えた。
ガソリンスタンドには制服を身につけた長谷川綺咲が居た。
セミセルフのこのスタンドは誘導し、給油はしてくれるが、ゴミの片付けと窓ガラスの掃除は自分でしなければならない。その分、フルサービスの店より油値は安価であり、サービスを待つ煩わしさがない。
誘導され、窓ガラスを開けると、長谷川綺咲はぎこちない笑みを浮かべた。
「いらっしゃいませ、レギュラー満タンでよろしいでしょうか?」
「キサちゃん、一週間ぶり。忙しかったの?」
出かけて以降、彼女からの返信はなかった。責めるつもりはないが、彼女が俺に向けていた視線の割に、一貫性のない行動が気になる。
ぎこちない笑みから困った表情に変わり、彼女は首を傾げた。
「いえ、その。……すみません」
「いや、いいんだよ。最初のデートがダメだったのかと思った」
「ダメなんて、そんな……」
「俺の事を知りたいって言ったよね?」
正攻法で来た彼女の言葉に嘘はなかった。けれど、色気があるものではなかった。嘘ではないけれど、正解ではない。疑い深い俺はとっさにそう思った。
「はい、知りたいと思っています」
彼女は少し照れたように俯いた。
「じゃあ、また海にでも行く?」
「あの……」
周囲を見回し、客がいない事を確認した彼女は、俺を真っ直ぐに見た。
「どうして、海、なんですか?」
「好きだから」
「好き……ですか」
「うん、そう。至極単純でしょ? あ、レギュラー満タンね」
クレジットカードを渡すと、お預かりします、と両手でキサちゃんは受け取った。給油後、値段を告げられ、頷く。レジから出たレシートを持った彼女は車の横に立った。
「失礼します。レギュラー満タン入りました。レシートとカードのお返しになります」
「ありがとう。……明日、また朝、海に行きませんか?」
「……トキさん」
「あ、名前。覚えてた? キサちゃんが先に俺を見ていたのに、返事がないのは、ロケーションを意識しすぎちゃった?」
軽く明るく言ったつもりだった。
「え?」
また意に反し、彼女はぎこちない表情。
「あーごめん、笑えないか。結構な期間……一ヶ月、だったかな。俺の顔を熱心に見てたでしょ?」
これではどっちが見ていたのか分からない。
「はい、そうです。見てました」
「じゃあ、なんで返事くれなかったの?」
「……あの」
眉根を寄せ、彼女は下唇を薄く噛んだ。
「……その、見てるだけで、良かったんです」
「見てる、だけ? 」
「はい、正確には存在を確認しているだけでも充分で」
存在?
俺は希少動物か。彼女の目的が分からない。
「でも、色々知りたいって言ってなかった? ってあれ?」
口説いているようにも聞こえる。いや、俺はただ彼女が自分に向ける視線の意味を知りたかっただけだ。それを好意だと受け取ったのは、彼女が先に俺を知りたいと言ったからだ。
「トキさんの事、知りたいけど、知りたくないんです」
はぁ、と小さい息が出た。
「あ、ちがっ、えっと、その、ごめんなさい」
「いや、いいよ。フクザツな乙女心ってやつかな。俺もなんとなくだけど、分かるよ」
本当は何一つ理解できない。
だが簡単に、分からない、とは言いたくない。
「つまりは、からかったって事? 医者をカモにするんだったら、もっと色々貢がせてからにしないと。バラすのが早くない?」
「いえ、違います」
「じゃあ、何」
「……えっと」
逡巡した態度に待ちきれないように、秋風が彼女の髪を揺らした。
「義兄に似てるんです」
「お兄さん? 俺が?」
「はい。だから、近くで見ていたくて。すみません、その、紛らわしくって」
「お兄さんか……、近くに居ないの?」
「はい。六年前に亡くなりました」
風の勢いが増し、街路樹の葉が擦れ、ざわめいた。
国道を通る車のエンジン音が近づいては離れてゆく。
「亡くなった……だから、熱心に俺の顔を見てたんだ」
「そうです」
「ふーん。じゃあ、俺自身に興味はない?」
キサちゃんを見るとまたぎこちない笑顔で首を振った。
「そんな事ないです。トキさんにも興味あります。海に誘ってくれたの、嬉しかったです」
「……じゃあ、また海に行く?」
「……はい」
スタンド内にエンジン音が響き、白いワゴン車が近づいてきた。
エンジンを入れ、迎えの時間はメッセージを送る、とキサちゃんに声をかけて、窓を閉める。
アクセルを踏むと車が唸りをあげた。
「ありがとうございました」
キサちゃんの声がして、ルームミラーを見ると頭を下げた彼女が徐々に小さくなっていった。
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