最終章 桜⑪

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最終章 桜⑪

朝起きて仕度しようと洗面所に立った。蛇口に手を伸ばした途端インターホンが鳴った。玄関の覗き穴から外を見た。妹が立っている。 「お兄ちゃん、開けて!」 急いで部屋に戻りテーブルに置いてあるノートを隠した。妹はしつこくインターホンを鳴らしている。やっとドアを開けると妹は疑うように睨みつけた。 「遅い!話があるから部屋入ろう」 そう言って僕を後ろに向かせて背中をぐいぐいと押した。 「朝からどうしたの」 「これ使って来週戻ってきて」 妹はチケットを突き出した。 「どこに?」 「実家よ。私がパパとママを説得してきたから、お兄ちゃんは帰ってきて」 「なんて言って説得したの?」 「そんなの知らなくていいから。パパが来週出張から帰って来るの、だからその時に謝ろう?」 「僕は恭也じゃない」 「まだそんな事言ってるの、今更謝れないからそんなウソついてるんでしょ?大丈夫よ、私が一緒に謝ってあげるから」 「そうじゃない」 「どうなってるか知らないけど、女の人から逃げればいいじゃない。よく考えて、家族が一番大切でしょ?お兄ちゃんは惑わされてただけ」 妹は僕の腕を掴んで揺する。 「帰らないって言っても、無理に連れて帰るから」 「… わかった」 目を見てゆっくりと答えると、妹は主張が通ったと思ったのか腕に抱きついてきた。 「ねえ、せっかく長野まで来たんだからどこか案内してよ」 「今から仕事に行くんだ」 「仕事?」 「君がこの間食べに行った店だよ」 「あー、あそこね。嫌だな~お兄ちゃんみたいなエリートがあんな古くさい店で働いてるなんて」 「悪いけど時間がないから出てってくれないかな」 「えー?私来たばっかりだよ?」 「家に居られるのは困る」 「わかった。じゃあお兄ちゃんと一緒に出る」 妹がテレビをつけてベッドにもたれた瞬間、僕の携帯電話が床に落ちた。 「あれ、携帯!ここにあるじゃん!」 「最近見つけたんだ」 「もう、私の着履残ってるんだから連絡してくれてもいいじゃない。そしたら長野まで来なくて済んだのに」 「…」 「まあいっか、近々ここも引き払うんだし。退去の連絡しておいてね」 着替えをして一緒に家を出た。妹は長野まで来たんだから観光して帰ると言い、僕が先に電車を降りた。本当は仕事ではなく病院へ行く予定だった。妹を振り切るため快速電車を2本見送る事にした。 マユナさんに会いに行ったのは、恭也の為だけではなかった。何よりも、僕として生きる道を手放す決心をしたかったからだ。恭也がノートに書いた病院の住所を元に足を運んだ。 病室は移動していたものの、確かにマユナさんはその病院にいた。相部屋の窓際にあるベッドをカーテンからそっと覗き込むと彼女は眠っていた。その寝顔を立ったまま見ていた。恭也はこの人と生きていくんだ、そう自分に言い聞かせているうちに突然瞼が開いてマユナさんは僕を見た。 「恭也…」 思ったよりも声に活力がある事に少し安心した。 「長い間、どうしてたの?」 マユナさんは恭也がここにいる事を俄か信じられないという様子だ。 「話したい事があります」 全てを話した。途中で質問を挟む事なくマユナさんは耳を傾け続けた。話し終わる頃、その目には涙のような輝きが浮かび、瞬きひとつした瞬間綺麗に弧を描いて雫がこぼれ落ちた。 「私、東京の病院へ移れる事になったの。恭也と連絡が取れなくなった時、母から携帯電話を取り上げられた。あなたの事を諦められるようにって。勿論母も私が心配でそうしたんだけど、まさかこんな形で戻って来るなんて、思ってもみなくて」 「僕の話、信じられないと思います。でも」 細い指先が僕の手首に触れた。 「信じていのかわかりません、でも、あなたは会いに来てくれた」 マユナさんは不思議そうに僕を眺めている。 「東京の病院にはいつ頃?」 「来週です、順調なら」 「もし恭也がすぐに戻らなくても、マユナさんは待っていられますか?」 僅かに眉間に皺を寄せてマユナさんは頷いた。それで僕は言った。 「2人に協力します」 閉店後の片付けが大方終わり、遥人君と翌日の準備に取りかかった。 「遥人君」 「なんすか?」 「お願いしたいことがある」 「はい。あ、あの事っすか?やっぱ告るんすね!なんか計画しました?俺らは何手伝ったら…」 首を横に振った。遥人君は全く意味がわからないという顔をした。 「東京へ行く事にした」 「え、東京!?」 「おじさん達にはここを辞める事、今朝伝えた」 「何の話っすか?」 「遥人君には説明するけど、夕夏と莉奈ちゃんには黙っておいてくれないかな?長野を離れるまでの間。男同士の約束って事で」 「えっ、なんすか!?」 家に帰り恭也にメッセージを書いた。マユナさんは無事で来週東京の病院へ移る事、妹が恭也を実家に戻そうとしている事、そして、恐らく僕にはもう時間がないという事を。 3日後の夜、意識を無くした。それはたった数時間、朝を迎えるまでの事だった。ノートには短いメッセージが書かれていた。 会いに行ってくれてありがとう。 昨日の夜、知らない女の子が訪ねてきた。 君に会いに来たんだと思う。 ノートを使って恭也と情報交換を続けていくうちに入れ替わるタイミングが増えてきた。 僕は恭也へ書いた。端から逃げる事を選ぶのではなく、マユナさんへの想いを家族に話して説得してみるよう伝えた。大切な人との未来のために全力でぶつかる事が出来たなら、それが険しい道程になったとしてもどんな後悔よりマシじゃないか、と。最初恭也は強く否定した。しかし最近書かれたノートにはこう記されていた。 胸を張って幸せだと言えるように、全てを掛けてみようと思う。 妹から渡されたチケットでは恭也と入れ替わることなく僕のまま帰った。父親と母親は目くじらを立ててテーブルに座り僕を散々責めた。言ってることはわからなくもなかった、けど、恭也が向き合えずに家を出た気持ちも理解できる。妹がうまく話をまとめてくれたおかげで蟠りは少し解消した。けど、マユナさんへの想いが良い形で叶うかどうかは恭也の説得次第だ。 長野に戻り、退去の日がくるまではあっという間だった。出発の朝、トランクの荷物にもう一度目を通した。財布と小さな紙袋だけを持って、未だ真っ暗な夜明け前の外へと出た。 夕夏の家の前に着いて紙袋の紐をドアノブに掛けた。向こう側で夕夏が眠っている。物音ひとつしない事を耳で確かめてドアに手を当て思いを馳せた。 あの日僕を見つけてくれてありがとう、いつかまた僕が目覚める事があるのなら、一緒に桜を見られるように願いを込めてこれを君に…… 午前10時半、退去の立ち会いを済ませ長野駅へ向かった。発車時刻までにまだ時間があるため売り場で本を読むことにした。 そろそろ車内に行こうと本を閉じた時、急に目眩がした。歪む視界を落ち着かせようとトランクに腰掛けて目を瞑った。夕夏と過ごした日々が頭の中を巡る、動揺する心を落ち着かせようと手を力いっぱい握り締めた。 目眩が治まり列車番号を確認しながらホームを歩いた。乗り込もうとトランクを引き上げた時、僕を呼ぶ声がした。 「タケル!!」 夕夏が立っている。 「どうして何も言わないで行こうとするの?」 純粋な眼差しを向けてくるこの華奢な体を今だけ思いきり抱き締めてもいいだろうか。 「なんで、離れるの?」 何も考えられなくなって手を伸ばすことを自分に許しかけた、でも、頭の奥に痛みが走り我に返ると僕は演技をしていた。 「君、この間の」 夕夏は血相を変えた。 「倉前、恭也さんですか?」 「はい」 「あの… これ、妹さんから預かってるんです。持って行って下さい」 「妹が?」 リボンが掛けられた包みを受取り出来るだけ無心を装う。発車のアナウンスが流れ、よそよそしく頭を下げて僕は列車に乗り込んだ。 発車のメロディが耳に残る。さっきの包みを開けると中には紺色のマフラーが入っていた。差し込んであったカードには英字で「Merry Christmas」と印刷されていて、その横にはペンで“ タケルへ ”と書かれていた。 マフラーを取り出して巻いてみた、温かくて柔らかい。夕夏はどんな顔をしてこれを選んでくれたんだろう。そんな事を考えていると瞼が重くなってきた。深い眠りに誘われながら、優しい日々を振り返った――――― * 「まだ時間掛かるのか?」 1階から苦情の声が飛んできた。 「もう行くから待って!」 鏡を合わせてへアセットが崩れていないか確認した。窓辺に置いてあるアクセサリースタンドからピアスを取って耳に付けた、指に石の冷たい感触がした。 「夕夏ー?あんた早くしなさいよ、隆平君玄関で立ちっぱなしなのよー!」 「わかってるー」 階段を駆け降りた。思ったより隆平は平然としていた。 「お待たせ」 「おう。じゃ、行くか」 受付には手作りのウェルカムボードや淡い色の花々、アンティーク小物などが飾られている。向こう側の受付に比べると随分大人びた色合いだと思った。確かに私達はもう大人で、止まっているように思えた時間が今日まで動き続けていたのだという事を実感した。 「湯浅花絵、か。新鮮だな」 「隆平、ネクタイ曲がってるよ」 「おっと」 鞄から鏡を出して隆平に見せた。スーツ姿を見るのは初めてだ。隆平は襟元を触ってネクタイを整えた。その仕草がちゃっかり似合っていてなんだか悔しい。 受付後、ロビーの椅子に座っていると隆平は何も言わず廊下を歩きどこかへ消えて行った。数分で戻って来た隆平は目が合うと私に手招きした。 「どうしたの?」 「こっち」 「え?」 階段を上がって後ろについていくと"湯浅家・入江家"と書かれた札が目に入った。 「ここって勝手に入れないじゃん」 「大丈夫だって、言ってあるから。行って来いよ」 「でも…」 隆平はドアをノックをした。焦って脈が早くなる。 「俺は入れないから」 ドアが開いてスーツ姿の女性が出てきた。手にはヘアスプレーを持っている。 「橋詰様ですね、どうぞ」 「は、はい」 軽やかな白いドレスが雲のように今日の主役を包んでいた。 「夕夏…」 花絵が居る。 「セットは完了してますから、ごゆっくりどうぞ」 美容師の女性は笑顔で一礼すると部屋を出ていった。 「夕夏、来てくれたのね」 「おめでとう… ございます」 花絵は瞳を潤ませて口を薄く開いている。 「ごめんなさい、私… 夕夏にあの時」 今にも溢れだしそうな涙を止めようとドレス姿の花絵を抱き締めた。 「いいの。私が子供っぽかっただけだから」 「ごめんなさい…」 「私こそごめん。化粧崩れるから絶対泣いたらだめだよ」 微かな息が肩の震えと共に伝わってくる。 「泣いてない?」 「うん」 花絵の顔を覗き込んだ。花絵は必死に堪えている、だけど目尻はうっすらと濡れていた。 「今日はお祝いしに来たの。だから安心して幸せなとこ見せて」 花絵は頷くと私を抱き締めた。 二次会は式場と別の場所へ移動する事になった。まだ午後の2時、晴れた空に桜が映える。 「いい天気だな~。ゆっくりできるし、最高」 「圭太さんって優しそうな人だね」 「あれ?夕夏は会った事なかったっけか」 「うん。隆平はあるの?」 「まあな」 「いつ?」 「お前が知らないずーっと過去の話」 「何それ?せっかくだから歩きながら教えてよ」 隆平は桜並木の枝に手を伸ばしながら前をのんびり歩き出した。 「ガキの頃だったからもう忘れた」 「ふーん、忘れるもんなんだ」 黒い背広を着ているせいか、なんとなく中学の時見ていた背中を思いだす。懐かしさを感じながら、自然に接してくれている隆平に心の中で感謝した。 「それよりさ、なんで急に考え変わったんだ?」 「え?」 隆平は振り向いた。 「お前が帰ってきてくれて嬉しい」 風が吹いて花びらが舞った。隆平は私の前髪を触った。 「手」 右手を出して広げた。 「ついてた」 掌に置かれた物を見下ろした。 「そういえばそのピアス、花びらみたいだな」 「………」 隆平は機嫌良く笑ってまた歩き出した。 掌には桜の花びらが1枚、優しく儚げに映るその淡い桃色を忘れないようにそっと握ってみる。いつか私に大切な事を教えてくれた、あの人を想いながら――――― 手を開くと風にさらわれて花びらは落ちた。芝生の上で遊び転がるのを見届けて、私は前に進んだ。 おわり
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