第1話 プロローグ 老女が死んでいた

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第1話 プロローグ 老女が死んでいた

 「おれ、シェイクがいい」助手席で元気な男の子の声が弾けた。すると女性の声がたしなめた。落ち着いているが、こちらもまだ大人ではない。 「遼、オレンジジュースにしておきなさい。それと、俺なんて言わない」 「ええーっ、シェイクがいい。だって……」遼と呼ばれた男の子の声がみるみるトーンダウンした。「飲みたいもん」 「お取り込み中悪いけど」後部座席で大人しく座っていた宇藤木海彦が口を挟んだ。 「元気すぎる君の弟さんを静かにさせるには、吸引に力のいるシェイクというのはいい案だと思うよ。氷のたくさん入ったオレンジジュースだとコップを振り回して、和気さんの高級車の中にこぼしそうだし。それに、七海さんもたまには味の好みで選んでみたらどうかな、待たされるストレスが和らぐし、未知への挑戦というのは、悪いことじゃない。君の歳だと身体の代謝も盛んだし、すぐ排出されるよ。それに七海さんは肥満どころか、すらっとしてとてもバランスがいい」 「……そうですか」白く表情に乏しかった七海の顔にうっすら朱がさした。  たとえ屁理屈だとわかっていても、宇藤木のような際立った容姿の男性に説得されるのは、悪い気分では無いようだ。みずるが言った。 「七海ちゃん、騙されないで。そのおじさん、遼くんをだしにして自分がシェイクを飲んでみたいだけよ」 「誤解だ。わたしは期間限定のカルピス味とカフェオレ味のは好きだけど、ほかはそれほど執着しない。たまに味見もいいかなとは思うが」  七海がうつむいた。笑いを懸命にこらえている。 「えっ、これ高級車なの?シートが革じゃないよ」 「そりゃ、お宅はレクサスだものね。お医者さんのおうちは違うわ」  大人気ないと思いつつ、和気みずるは少年の憎まれ口に言葉を返した。遼は喉を鳴らして笑っている。彼女に構ってもらうのが嬉しくてならないようだ。  姉弟は、みずると宇藤木の担当窓口である難波刑事の姪甥にあたる。彼には姉が二人いて、七海と遼は長姉の子供であった。  母親は開業医ではなく勤務医とのことだが、家の車は電動革シートのほか電子装備がてんこ盛りなのだそうだった。 「でも、せいやちゃんのは660CCだから、こっちがずっと大きい」  せいやちゃんというのは、叔父である難波のことである。星哉というのが彼の名だ。 「都会で乗るなら、かなり便利よ」 「おじさんってアーバンポリスだからね」 「うん。ぼくもあの車、好き。椅子が面白いよ。でも、お母さんと東京の沙織ちゃんは、カイショがないからだって」と言い、遼少年は楽しそうにくっくっくっと含み笑いした。 「こら。変なこといわない」また姉の七海からチェックが入った。  沙織ちゃんと言うのは、難波刑事の次姉の名だ。医師免許を持ちつつ東京で官僚となっている。難波家は明治時代から続く医師一族とのことだった。 「そのうち、県庁に保健部長として赴任していらっしゃるかもね」 「きっと難波くんも、さらに仕事に熱が入りそうだ」  物怖じしない遼と話していると、名士の集う一族における難波刑事の立場が、なんとなく理解できてきた。 「とりあえず、ドライブスルーで飲み物を買って、それからまた考えようか」みずるが姉弟の目をみながら言うと、二人はちゃんと見返してうなずいた。  いい子たちだな、と思う。  当の難波おじさんは目を泳がせつつ、「ちょっと用事が。二人を頼みます」と言って何処かへ行ったきりであるが。用事がなになのかは、さだかではない。仕事や治療がらみで無いのだけは、確かだ。  姉弟を、みずると宇藤木が面倒を見る羽目になった理由はこうだ。  以前、仕事中に負った小さな傷がもとで、難波は足指をひどく腫らしてしまった。その治療のためもあって、彼は少しまとまった休みをとることになった。しかし、その前にみずると宇藤木の頼んでいた書類を用意するのをすっかり忘れ、休みに入った。  みずるが、難波の同僚である安堂にそれをこぼしたところ、どこで察知したのか、 「今日、ちょっと外に出ますから、謝りに行きますう、ついでに宇藤木さんと一緒に、たまには昼食でもどうですか」と連絡があった。  過去に難波が同様の出方をした場合、別の頼みをおっかぶせてきたことがあって、正直なところ警戒しないでもなかったが、たまたまその日は土曜日であり、宇藤木と同道し病院に出向き、共通の知人を見舞った最中の連絡だったので、(おそらくこの情報を得ていたに違いない)そのまま深く考えずに合流することになった。  しかし待ち合わせ場所に現れた難波は、大袈裟に足を引きずりつつ、どちらも小学生と思われる女の子と男の子をつれていた。彼は言った。 「すみません、姪と甥です。今日はぼくの杖代わり、なんちゃって」  その時の小学生二人の白けた顔から、この叔父がどの程度の尊敬を受けているかがよくわかった。  姉の七海は小学6年生、弟の遼は同じく2年生。どちらも都内にある私立小学校に通っている。母親の学会参加に従い、会場に住まいが近い叔父のところへやってきたという。 「きさま謀ったな」みずるが当人たちに聞こえないよう囁くと、 「すみません、今日明日とぼくが面倒を見るよう命じられたんですう」と、難波はわるびれずに答えた。「放置子にしたくないじゃないですか」 (こいつ、ほんとうに要領のいい奴)  みずるは、懸命に腹立ちを抑えた。彼女および宇藤木の気質から、小さな姪甥の前で叔父の顔を潰すような言動はないと難波は読んでいるのだ。彼のミスもうやむやになるだろう。くやしいが、読みは当たっている。  しかし、へらへら笑いを浮かべる叔父とは違って、姉弟は子供らしい活気に溢れているものの、顔立ちも態度にもどこか品があり、特に姉娘はとても大人びていて、叔父と比べものにならないほど、しっかりした小学生だった。  宇藤木の非日常的な容姿と言行についてあらかじめ聞かされていたものか、熱心に観察はしていても、自制が効いていた。単に大男が怖いだけかもしれないが。  昼は、とりあえずファミリーレストランに連れて入った。姉はもとより、腕白の片鱗がうかがえる弟もまた、おしゃべりではあっても警戒していたような悪さはせず、食事のマナーもなかなかに良い。親のしつけが厳しいのだろう。  それどころか、少年は初対面のふたりがすっかり気に入ったようで、みずるにはわけさんわけさんとまとわりつき、それに飽きると宇藤木をしげしげと見上げる。 「ねえ、うとうぎさんって力、つよい?」 「いいや。お箸を持っただけで疲れる」  意外だったのは宇藤木の反応だった。これまでに見た子供への態度から、嫌いではなさそうだ、と感じていたのだが、目の前のおしゃまな姉弟に対しては、軽んじるどころか、自分と対等に扱う。ときおりからかうのも、なかなかに上手だ。もちろん、叔父の難波に対するいつものイジリも、ぐっと控えめになった。 (子供好きだったのか……)と思い至ったのは、みずる的にはけっこう衝撃だった。  チビたち二人がそろって手洗いに行った間に、 「そんなに子供あしらいが巧みだなんて、意外だった。尊敬する湯川先生とは違うね」と言ったところ、 「子供の非論理的なところがいい」と、返事があった。 「そういえば、あなたもそうね」 「そうか、これは自己愛だったのか!」  とりあえず、本好きという姉に合わせ、大型書店を四人で散策したが、難波が戻らないため、3時のおやつがわりにハンバーガーショップに向かうことにした。それも当初検討していた、世界中にチェーンのあるハンバーガーショップのドライブスルーではなく、国内だけで展開している店にみずるは車を停めた。看板を目にした遼が、「あっ、幼稚園の時に一回だけ入った」とはげしく反応し、姉の七海も入店を追認したからである。  店内では、目の前に置かれたチョコレートサンデーを、遼は突撃するようにスプーンで崩しては口に運んだ。万事に自制的な七海も、みずるの買ってやった本を大事そうに膝に抱え、ほんのりと嬉しそうな顔をしてストロベリーサンデーと対峙している。  宇藤木はポテトフライを前に、「あっちの店より美味しい気がする。よかったら味見して」と、ソフトクリームを浮かべたアイスコーヒーを優雅に口に運んだ。 「冷たくておいしい」 「ねえねえ、さっきの話」とりあえず食べ物を腹に納めると、遼は待ち兼ねたように車中での話の再開をせがんだ。難波は、宇藤木が人の隠していることを当てる名人である、と前々からふたりに語ってきかせていたらしい。 「クラスの誰が君を好きかなんて、わからないよ」宇藤木が機先を制すると、遼はもじもじした。ポーカーフェイス気味の七海の口の端が小さく歪んだ。  また笑いを堪えているらしい。本来は朗らかな女の子のようだ。 「じゃあじゃあ、悪い人はわかる?」 「誰でもちょっとずつは悪いさ。でも、大勢集めてきて、この人たちの中にさっき人を殺した人がいます、さあ誰でしょうというのなら、結構いい確率でわかるかもね」 「う、宇藤木先生、それはあまり小学生向けの回答ではないのでは」みずるが介入すると、「そうかな。喜ばせようと直接的に答えたんだけど」と言った。 「じゃあねえ」遼ははかりごとをするような顔をして、「僕に弟がいたら、おかあさんはどんな名前をつけたかわかる?」と聞いた。表情からすると得意の質問のようだ。宇藤木は前触れなく、 「一番の候補は40%の確率で当麻」と答えた。姉妹があっけにとられていると、「あとは征士か伸か秀で確率を均等割。あ、拓という可能性もある。いずれにせよ君とお姉さんの名前から、ご両親がどうして意気投合したのかがわかるよ。これはかなり簡単。時間が経過して、君たちの世代にはわかりにくくなっただけ。わたしより、もう少し歳上の人間ならもっと難しくない問いだよ。わたしが詳しいのは身近に同種がいたから。君ぐらいの頃からずいぶんとレクチャーされたものさ。あ、おじさんの名前だって年齢差からすると、君たちのお母さんが口を出したかも知れないね」  空気が変な感じになったので、「おじさん、遅いけど心配しないでいいからね。よければ直接お母さんのホテルまで送るし」と、みずるが言うと、 「またせいやちゃん、怒られるかな」と、遼が言った。 「おじさん、おかあさんによく怒られてるの?」 「怒られるっていうか、ダメ出しされてる」 「あら、そう」 「あの」すると七海が口をひらいた。 「星哉おじさんは、ほんとうに事件を解決したりしているんでしょうか」  大人びた彼女の真剣な口調に、みずるはやや気おされてしまった。 「そ、そうね。ただ、警察の仕事ってのはテレビみたいに、ひとりが活躍してとかはあまりなくて、ほんとうは大勢の力が合わさって結果の出るものだから…」 「否定しているように聞こえますよ」宇藤木がささやいた。 「え、そうかな」 「七海さんの聞きたいのは、こういうことかな」二人の顔をゆっくりと見て、宇藤木が問いを引き取った。 「君たちの叔父さんが、ふだん君たちの前で見せる姿はてきとうで頼りない。ところが、叔父さんはときどき、現場での自分をまるでテレビの刑事ドラマの主役みたいに語ることがある。本当だろうか」  七海は黙ってうなずいた。「そして七海さんは、叔母さんやお母さんの言うように、叔父さんを冴えない刑事だと考えている」  宇藤木は七海の顔をじっと見て、「いや、ちがう。お母さんたちが正しいのかなと思いつつも、もしかしてという気持ちが強くある。君は前におじさんに」彼は唇に指をのせた。宇藤木が「神託」を語る時のくせだ。「助けられた。いじめから救われた?いや、君がいじめ犯扱いされそうだったのか。いじめグループの一員とみなされたんだね。先生もご両親もそう思い込み、君を叱ってばかりいたのに、おじさんだけが少しも疑うことなく君を信じ、君の側に立ち、助けようと奮闘した。そしてついに相手に嘘を認めさせたのかな。ご両親は大人げないと非難したけれど、君はおじさんに救われた」  小さく口をあけたまま、七海は固まった。賢そうな目がまん丸になっている。 「大丈夫。叔父さんは口の軽いところはあるが、この件については全く、ぼくらに話したことはない。君が誤解されるのを嫌ってのことだろう。彼は君たちが大好きだから、他人の機嫌をとるために君らをネタにしたりもしない。今日は放置しやがったけど」  七海はゆっくりとうなずいた。宇藤木は続けた。 「だから、おじさんを軽く見つつも、誰かが悪口を言うのは、不快に感じる。胸のうちのどこかで、おじさんがテレビの刑事のように優秀だったらいいなと思っている。そんな話が聞けたら嬉しいとも思っている。おじさんが仕事に献身的なのは、感じているから」  いまや七海は、とても真剣な表情を浮かべて、宇藤木の話に耳を傾けている。元気な遼でさえ、姉のただならぬ気配に、真面目な顔になった。 「いつものおじさんは多少無責任で、軽い性格に見える。しかしテレビの刑事や探偵の中には、普段は馬鹿みたいだが、しめるときはビシッとしめるのがいる。君は、おじさんにそんな面があるのかを確かめたい?」  七海は「はい」と声に出した。宇藤木は微笑した。 「さっき和気さんが言ったように、刑事というのは普通、チームで動く。それも、ヒーローの出やすい野球やサッカーよりも、駅伝やリレーだったり、パーティで登山するのに近いかな。わたしたちのような」宇藤木は自分とみずるを指差した。「おいしいとこ取りをしている存在とは違う。とにかくコツコツと粘り強く積み上げることが大切な仕事なんだ。報われないことも多い。でも、彼らの指摘が、行動が、一挙に事件解決をうながした事例もたくさんある。ビシッとしめたのと同じことだね」宇藤木は遼を見た。 「遼くんもさっきから捜査の話を聞きたいと言っていたね」 「うん」 「では、おじさんが戻るまで、彼が際立った動きをした事件について、ちょっと話してみようか。もちろん知っての通り、そっくりそのまま話すことは許されない。だから、これを実際の町名ではなく、東京の有名な観光スポットに置き換えて話をしよう。舞台は老人の多い街だったから巣鴨ということにしようか。わたしは一度だけ行って、赤いパンツが売っているのを見てきたぐらいしか関わりはないけど。そして、巣鴨のとある歴史的建造物で、人が死んでいた」 「もしかして、小学生にあの竹を割った話をするつもり?」みずるが、やや慌てて聞いた。 「あれは難波くんの活躍がわかりやすいからね。むろんフェイク入りで」 「いくらぼかしても、あれ子供には怖いわ。もしかしたらおねしょするかもよ」 「遼くんは、まだおねしょをするのかい?」 「しないよ」ぷい、と少年は首を横に向けたが、姉はちらっと冷やかすような笑みを浮かべた。 「ふむ。まあ夢に見ないようにマイルドに話すよ。われわれが巣鴨に行ったのは、いまよりも朝夕が涼しい時期だった。ここが大事なんだ。なぜって、深夜から明け方にかけて死体が放置されていたのだから、夏場ならにおったかもしれない」と、宇藤木はさも大事そうに言った。子供たちふたりは、みずるの困り面を黙って見ていた。
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