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「もしもし、カズコさん。今どこにいますか? わたしは噴水広場にいます。カズコさん、近くに来たら連絡ください。お願いします」  焦茶のニット帽を被り、カーキ色のセーターを着たおじいさんが、折り畳み式の携帯を耳に当てて、ときに左手で腹を摩っている。  たしかに浮世な空っ風が吹く上野は、耳が痛くなるほど冷え込んでいる。焼き芋屋が走っているなら、俺は真っ先に財布を取り出して買いに行くだろう。ポケットに手を突っ込み、立って待ち人を待つ俺の仕事はしんどく、室内で労働するオフィスワーカーを羨んだりする。 「ああ、寒いなあ」  おじいさんが冬の寒さを憂う。俺は煙草が吸いたくなる。だが今日の日本はマナーに厳しく、息を吐くように煙を出せば、たちまち炎に薪をくべたがる人間たちが俺の元へ飛んでくるだろう。 『貴方達も大層暇を持て余しているようで』  俺の心の言葉は、ドロドロの油となって延焼させていく。いずれ俺自身が燃え尽き、残るのは真っ黒焦げになった俺の残骸のみ。もはや煙草よりも鼻につく存在になる。 「悲惨だな、そりゃ」  俺は小言を言って、独り苦笑した。  五分ほどして、おじいさんの元へもう一度電話がかかってきたようで、「噴水広場で待っています」と連呼していた。  カズコさん。そいつはきっとおじいさんの妻だろう。おじいさんの年齢からして、きっとご高齢なおばあさんに違いない。老夫婦で二人三脚で歩んできた日本はどうだったのか、ぜひ酒でも飲み交わして聞いてみたいものだ。銀座シネパトスで観た映画は感動したのか、三省堂神保町店で買ったジャズの雑誌で徳を積めたのか。俺はこのお爺さんの素性などまるで知らないから勝手に想像しているだけだが、せめて彼らのように煙草が自由に吸えた時代に青春を送りたかったと、このおじいさんに嫉妬したりする。東京がこんなに窮屈で淀んでいる街だと知らずに上京した俺を、あんたらが成仏するときに一緒に連れて行ってほしい。 「お待たせ、カンタさん!」  やけに甲高い声だった。それは上品さのかけらもなく、むしろ不純さすら感じる。幾度も新宿で聞いた卑しい声。なぜ、穏やかに過ごせる上野公園でその声が聞こえるのか。 「あ、カズコさん。こんにちは」  俺は二人の出会う絵面を見て驚嘆した。 「おいおい、嘘だろう」  カズコさんの見た目は、花柄の黒いスカートに、羊の毛をそっくりそのままもぎ取って作ったような白いパーカー。髪はブラウンベースだが、前方にピンク色のインナーカラーが入っている。竹下通りにわんさかいそうな女性、いや、女の子だった。 「カンタさん、元気だった?」  その女は笑顔でおじいさんに尋ねている。 「はい。元気でしたよ、カズコさん」  おじいさんがニコニコ笑っているのに対し、「カズコさん」なる女の子も相応しい笑顔で対応する。もしかして、孫だろうか。だが、それにしてはよそよそしい気がする。 「カンタさんと会うのは三回目ですよね?」 「はい。そうですね。前回は一緒にカフェに行きましたね」  三回目。やはり家族ではなさそうだ。だとしたら、この歪んだ関係をどう説明してくれる。側から見ながら、俺は独り頭を抱えた。 「美味しかったでしょう、パンケーキ」  おい若造、お前はお爺さんになんちゅう物を食わせているんだ。だが、おじいさんは破顔したままだ。 「はい。あのホットケーキは美味しかったです」  パンケーキとホットケーキを勘違いしているおじいさんは、一言で言えば 「楽しそう」だった。    もしかして、俺には到底想像し得ない特別な関係でも結んでいるのだろうか。鷹とシーラカンスくらい出会う確率の低い二人が、仲良さげに会話している姿を見ると、奇跡なんて道端に転がる小石程度に落ちていると勘違いすらしてしまう。 「カズコさんと一緒にお散歩できて、よかったです」 「わたしも、カンタさんと一緒にお話しできて楽しかったですよ」  極上のリップサービス。やはり、悪女の匂いがぷんぷんする。  カズコさんと名乗る女がおじいさんを座らせ、自分も真隣に腰を下ろした。
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