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「全然。……自分の好きなことばっかりで。母さん困らせてさ。だからこそ、これからは俺が母さんの力になろうって思ったのに」
彼はコーヒーをぐいっと飲みきった。
「進学はしないで就職するって言ったら、怒られて。大学受験しろっていうんだ。好きなことをしろって。いつも俺ばっかり気を使われて、全然俺のこと頼らない。一人の人間として、信用されてない」
ため息をつく彼の面影からそのお母さんを思い浮かべて、涙が出そうだった。
本当に素敵。
私とは大違い。だって私は、絶望している。
この現状を、不幸だと捉えてる。
「信用してないわけじゃないと思うよ。ただ、幸せに過ごして欲しいだけ」
それなのに自身のお腹を無意識に触っている自分に驚いた。
「あなたがやりたいことを目一杯頑張って、楽しんでいるところが見たいから」
心から出た言葉だった。
不思議だ。口が勝手に喋った。
こんな感情、まさか私から生まれるなんて。
「……ありがとう」
彼は目を細めて笑った。
この心が救われていくのが、不思議なくらい感覚としてわかった。
「お姉さんは?悩みとかないの?」
彼の問いかけに一度は躊躇したが、私は息を吸い込んで、全てを聞いてもらう覚悟を決めた。
彼に聞いて欲しかった。
彼だからこそ聞いて欲しかった。
「私、不倫しちゃったの」
初めて言葉にすると、思ったより滑稽で、馬鹿馬鹿しさまで感じた。
「……不倫?」
彼の顔が微かに訝しげな表情に変わるのを見逃さなかった。
だけど私は、勇気を出して続けた。
「私、昔から絶対に悪いことだけはしないように気をつけてた」
保守的で厳しい両親に育てられ、ずっと与えられた正しい道を歩むことに専念して生きてきた。
身だしなみ、食事の仕方から始まり、付き合う友達や勉強の内容まで。
自分の進路を自分で決めるなんて、家ではあり得ない話だった。
親が決めた学校に進み、親が決めた会社で働き、ゆくゆくは親が決めた結婚相手と縁談を進めるはずだった。
しかし、あの日私は初めて自分の意思だけで動いた。
「会社で出会った上司のことが好きになってしまって。その人も、……私のことを好きだと言ってくれて」
深い仲になるのは時間がかからなかった。
初めて私は、自分の本能に従い生きたのだ。
それは幸福だった。
幸福の、はずだった。
「……知らなかった。彼が妻帯者だったなんて。いずれは結婚しようって言ってくれてたし、なんの疑いもなかった。……だから私は」
なんて浅はかだったんだろう。
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