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「今日、彼に会いに行ってやっと知ったの。奥さんが一緒に来ていて。“人の旦那に手を出すなんて最低だ”って。私、何も言葉を返せなかった。……その通りだから。知らなかったでは済まされない。人のものを奪っていい理由にはならない」
よく考えたら、不倫だと気づける瞬間はいくらでもあったと思う。
だけど私は無意識に気づかない振りをし、不信感を抱く心をシャットダウンして、彼に溺れたのだ。
……いや、彼にじゃない。
自由に恋をする自分に溺れていた。
罵られる私を見下ろし、彼は黙っていた。
私を庇うことも、やり直そうという素振りも見せずに。
ただ黙って、誑かされた被害者の目で、泣きわめく奥さんの隣に居た。
だから私は、数時間前まで奇跡と幸福に震えていた事実を、とうとう彼に伝えられないまま別れた。
「私、罪人になっちゃった」
話している途中でハッとする。
「ごめんね。嫌な話して」
こんな話、未成年の彼にすることじゃない。
ましてこんな、眩しいくらい輝いた人に。
「……罪人なんかじゃない!」
彼の叫びに息を呑んだ。
震えるくらいにわなわなと怒りを露にして、その目には、微かに涙が浮かんでいることに驚いた。
「あなたは罪人なんかじゃない。……そりゃ、不倫はよくない。人のものをとっちゃだめだよ。でもさ、一番悪いのはお姉さんを騙してた男だし、そんな男の方を責めないで、全部お姉さんのせいにする奥さんも悪い」
ひたすら怒っている彼を前に、私は静かに泣いた。
ジャージが温かい。
一緒に飲んだコーヒーの缶が温かい。
彼の怒りが、凄く温かかった。
「お姉さんは罪人なんかじゃないよ。だから、もう一度幸せになって欲しい」
「……ありがとう」
出会ったばかりの見ず知らずの、しかも自分よりうんと若い少年に救われるなんて。
この小さな奇跡が、これから先の未来も救ってくれるような気がして、少しずつ絶望が薄れていくのを感じた。
「……例えばさ」
少し言いづらそうにして、彼は言った。
「ごめん。嫌な質問するけど、いい?」
私は黙ってこくりと頷く。
「もしも今、お姉さんがその人との子供を授かっていたとしたら、その子は罪人だと思う?罪人の子供?」
彼の目が頼りなく曇った瞬間、自分でも驚くほどの強い感情が支配した。
信じられないくらいの勇気が身体中を漲って、循環し、それが声となる。
「……思わない。罪人なんかじゃない。絶対にそんな思いはさせないから。……幸せにするから」
何度も何度も、自分のお腹を擦った。
「生まれてくれたら、幸せだから」
彼は心底嬉しそうに笑った。
「……ありがとう、お姉さん。なんか、勇気でた」
「……こちらこそ」
勇気を貰ったのは、私の方なのに。
「そのジャージ、あげるよ。今日のお礼に」
「そんな」
「お願い。貰って。じゃあね、お姉さん」
そう言って、彼は呆気ないくらいさっぱりと手を振って背を向けた。
川の流れと同じ方向へ、勢いよく走ってゆく。
その姿を見ながら、やっと微笑むことができた自分に気づいた。
「……帰ろうか。望」
この子の名前も無事に決まったことだし。
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