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序章
その日は外が吹雪いて、とても寒かった。
息を吐くと呼気の水滴が、ガサガサになった古いウール布帛の外套を氷のように冷やした。
口元に当たる部分が酷く不快で一瞬全て取り払おうかとも思ったが、フードを脱いで瞼を開けていると瞳まで凍りそうな気もする。
少年は我慢して外套を掻き寄せ、上に毛皮の毛布を羽織る。
フードを目深に被り直し膝を抱えると、出来るだけ暖を取ろうと仲間たちと身を寄せ合った。
ゴトゴトと馬車が揺れる。
木箱に車輪を付けた様な小さなボロ馬車だ。そこに十人近い人間が押し込められる様にして震えている。
手足を伸ばす事も出来ないくらい狭いので、もそもそと身体を動かして固まった身体をほぐそうとすると近くの男から蹴られた。だが向こうも先程同じ事をしたので遠慮なく蹴り返す。
それで乱闘が起きたりはしない。
皆が見慣れたいつもの光景だ。
誰も口を開かず、ただ馬車に揺られている。
暫くしたら外の連中と交代だ。そうしたらこの狭っ苦しいボロ馬車からは出られるが、今度はここの比ではない寒風の中を進まなければならない。
寒さに凍えていると外からドンドンと小刻みに四度、馬車の壁を叩かれた。
間も無く交代の合図だ。
霜馬を買うくらいなら、いっそ大きくて頑丈な馬車を買えば良かったのにと彼は内心ぼやきながらも交代に備えて腹拵えを始めた。
と言っても温かい食べ物なぞありやしない。
カチカチに凍った干し肉をバキリと折り、手の中で押し揉んで、気持ち柔らかくして口の中に放り込む。
噛むと言うよりは噛み砕くといった表現の方が正しい。思い切り力を入れて噛まないと、とてもではないが飲み込める大きさにはならない。
硬いまま飲み込む事も出来なくはないが、詰まらせたり喉の奥を傷付けたりすると翌日以降が面倒臭い。
肉の味は当然の如く皆無で、代わりに大量の塩気に口の中の水分を持っていかれた。
堪らず顰めっ面をし皮袋に入れた滓酒を煽りひと心地着く。すると隣から火酒の入った皮袋が回って来た。
一人二口が決まりだ。
誰ともなしに歌い出す。
『酒は二口。一口目で目を開けて、二口目で身体を起こせ。三口飲むと天使が来るぞ』
外に出る為の気付けも兼ねる火酒は世間的に見てまだ子供である少年には早いかの様に思われたが、彼は迷う事なく二口飲んだ。
舌に苦味が走ったかと思うと、喉の奥がカーッと熱くなり不快な酸っぱさが口内にへばりついた。ただ身体はあったまり気分も多少良くなった。
気休めでしかないが、これが酒の凄い所だ。安酒でも充分気付けの役目を果たしている。
「全員回ったな。出るぞ」
第二陣のリーダーが声をあげるとボロ馬車の後方に備え付けられた両開きの扉が開き、走行中の馬車に霜馬に跨った男たちが次々と近寄って来る。
「行け、行け、行け」
リーダーが叫ぶと速度を上げて近付いていた霜馬が馬車後方の扉前を素早く横切った。その瞬間、馬車の中にいた一人がそちらに飛び移り、代わりに霜馬に乗っていた男が馬車の中へ転がり込んで来る。
選手交代。
騎手を変えた霜馬は隊列を組む為にサッと吹雪の中へ消えて行く。それを幾度か繰り返し、少年の番が回って来る。
「いけるか、“雪子”」
「当然」
リーダーが揶揄う様に言ったので、少年は憮然として強く言い放った。
何も問題ないと。
向こうから霜馬が駆けて来る。
その背に乗っているのは妙齢の女だ。
重装備に身を包み、毛皮の外套を羽織っているが顔色は悪い。
吹雪の中を半日も走ればそうなるだろう。本来ならば休み休み行くか、吹雪が去るまで待つのが賢いやり方だ。
だがーー彼らが休みなく吹雪の中を強行突破しているのは時間が無いからだ。
次の戦場では速さがものを言う。
誰よりも早く辿り着き、誰よりも早く旗を立てねばならない。
敵国の連中が陣を張る前に。
依頼国の連中が悠々と前線基地を作る時間を確保する為に。
それが今回の依頼であり、彼らが請け負った仕事だった。
傭兵ーー彼らはその中でも特に腕利きで知られた一団で“砂獅虎”と呼ばれていた。
女は馬車の扉の前まで来ると余裕を持って緩くした手綱を軽く持ち上げ、交代者へと呼び掛けた。
「“雪子”!」
「姐さん、お疲れ」
少年は手綱を受け取ると、折しも強い突風が吹き、彼のフードを薙ぎ払った。その拍子に白銀の髪に青が混じった銀灰色の瞳を持つ稀有な美貌が露わになる。
だが少年が怯む事はない。
彼は先に飛び乗った誰よりも身軽に霜馬に飛び移ると器用にそれを駆り
「ゆっくり休んで」
まるで雪の妖精の如き冷たい容貌に、春の陽射しの様な柔らかな笑みを浮かべそう言うと、少年は隊列を組む為、白い闇の中へと消えて行った。
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