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第3話「戦災孤児」
今でこそ騎士となった白銀だが、彼の人生の大半はそもそも名誉や栄光とは程遠いものであった。
彼は元々辺境に住むある氏族の生まれであったが戦争で家を焼かれ、家族を殺され4歳で戦災孤児となった。
その時の記憶は今でも白銀ーー
イーリアスの脳裏に焼き付いている。
目を閉じても開いても、親の顔すら記憶の彼方に霞む今でも、あの時の光景だけは昨日の事の様に鮮明に思い出せた。
ある真冬日の、月の無い夜の事だった。
東の方から彼の住む街に黒い一団が押し寄せた。
高らかに上がる土煙。
大きな地響き。
それを感じたと思ったらあっという間に街のあちこちで火の手があがり、気付けば辺りは阿鼻叫喚の地獄絵図となっていた。
幼いイーリアスは既に眠っていたのだが危険を察知した母に叩き起こされ上着も着ないで外に引きずり出された。
身を切る様な寒さに愚図る間も無く、家を捨て、ラディウスを祀る神殿へ逃げ込む為に走らされた。
主神ラディウスの神殿は他の神の神殿とは異なり、全てのラスガルド民にとっての聖域である。そこに逃げ込めば敵国の兵と言えど容易に攻め入る事は許されない。
余程の事が無い限りは。
だが、そこに辿り着く前に悲劇は起きた。
神殿へと繋がる唯一の道が、炎と黒い兵士たちの一団に閉ざされていたのである。
敵国の民がラディウスの神殿に逃げ込まぬ様に、彼らは先手を打って道を塞いだ。
そこからは、虐殺だった。
武器を持たぬ民たちを兵士たちは剣で斬り、槍で突き、物言わぬ死体へと変えていった。
同じ人間に対する所業ではない。
悪魔の様だと、イーリアスは思った。
彼らにしてみれば自らに下された命令を忠実にこなしているに過ぎなかったのだろう。
敵国の民は自分たちと同じ人ではない。だから何をしても許されると。
その辺にいる犬猫以下、森の獣と同じ。そこに慈悲などある筈も無かった。
次々と同郷の者たちが死にゆく中、とうとうイーリアスたちの番がやって来た。
母は幼い息子の肩をしっかりと抱き、目を覗き見てこう言った。
「どんな事があっても、決して声を立てたり動いたりしてはダメよ」
戦に従軍している父から母の言いつけは守る様にと言われたので素直に頷くと、母はにこりと微笑み、彼を倒壊した家の瓦礫の隙間に押し込んだ。
そして、その瓦礫の前に他の大人たちと共に陣取った。手には何処かの民家から拝借した稲刈り用の古ぼけた鎌を手に。
イーリアスはそれを瓦礫の隙間から見ていた。
黒い兵士が押し寄せ大人たちを容赦なく斬り捨てる。訓練された兵にただの民が叶う訳もない。それでも決死の抵抗を続ける彼らに兵たちは随分と手を焼かされた。
だが、それも直ぐに終わりになった。
騎士が合流したのだ。
敵国の騎士たちが。
「殺せ」
無感情な命令が下されると同時に、一方的な殺戮が訪れた。
大人たちは速やかに、確実に息の根を止められ、まるで朽ちた人形の様に地面に転がった。堆く積み上げられた。物の様に。
「手間取らせやがって」
誰かがそう言うと手近な死体を腹立たしげに蹴り飛ばした。
イーリアスの居る瓦礫の目の前に、ごろりと1体の死体が転がって来る。
それは、彼の母のものだった。
ひっと喉が引き攣り、反射的に悲鳴を上げそうになったイーリアスだったが、口に両手を当てると声を押し殺した。
母と約束したからだ。
どんな事があっても、絶対に声をあげたり音を立てたりしないと。
ガチガチと奥歯が鳴っていた。
戦火に巻かれたこの場ではエルフですら聞き取る事の出来ない小さな音だ。だが、彼にはそれすらも自分の居場所を殺戮者へと教える切っ掛けになってしまうのではないかと思われた。
瓦礫の隙間で息を潜める。
目の前には澱んだ瞳で口を半開きにし、頭から血を流す母の姿と、生き残りを探す敵兵たちの黒い足元だけが見えた。
イーリアスは死した母と真正面から見つめ合いながら、ただ何も出来ずに震えていた。
どれ位そうしていただろう。
やがて敵兵たちは残った建物から金品を略奪し、満足すると引き上げていった。
唯一の生き残り、イーリアスを見落として。
辺りがすっかり静かになるとイーリアスは瓦礫の隙間から出るかどうか考えた。
けれどまだ敵兵がいるかもしれないと思うと這い出す勇気も出せず、ただ怯えて寒さと恐怖に凍り付く他なかった。
極限の緊張と恐怖で、寒さに対する苦痛も感じる事さえ出来ない。そんな折、何処からか馬の蹄の音がした。
敵国の連中かとイーリアスは身を固くした。
だが彼の耳に届いたのは祖国の言語だった。
「間に合わなんだか」
誰かがイーリアスのいる瓦礫の側で呟いた。
良く通る男の声だった。
低く、ともすれば冷徹に聞こえるほどの声音だったが、それは酷く落ち着いていて…それでいて何処か悔恨の様なものを滲ませていた。
「だからさっさと俺に王位を寄越せと言ったのだ。愚王め」
吐き捨てた言葉は難しく、幼いイーリアスには理解出来なかったが、敵国の兵ではないらしい。
同じ国の人間なら味方だ。
子供のイーリアスはそう考え、瓦礫の隙間から這い出そうとした。しかし長くそこにじっとして居た為か、四肢が凍り思う様に動かなかった。
手を伸ばして近くの瓦礫を退けようとしたが物が掴める状態でもない。仕方なく肘をついて蛇の様に身体を隙間に捩じ込み、顎や手足を傷だらけにしながら懸命に這い出した。そのままずるずると這うように母の遺体へと向かう。すると
「ほう、生き残りが居たか」
女の遺体に向かい地を這う子供を馬上から一瞥し、男はそう漏らした。
驚いた風な台詞ではあるが、そこに憐憫や憐れみの情など一欠片もない。ただ事実としてそれを認識する様な台詞だった。
「小娘…いや、小僧か。この状況で1人生き残るとは哀れな奴よ」
イーリアスは答えられなかった。
昨日のまでは温かかったのに、今は冷たくなってしまった母の遺体の傍らに座り込み力なくその手に触れていた。
泣き叫ぶ事すら忘れて、ただその場に居続けた。
「それは貴様の母か」
問われたので小さく頷いた。
問うた男はそれを睥睨したまま馬から降りる訳でもない。が、何を思ったか徐に腰から短剣を引き抜くとイーリアスの足元に投げ落とした。
首を傾げ、ぼんやりとそれを見詰めるイーリアス。すると男は言った。
「拾え、幼子よ。不運にも生き残ってしまった貴様にくれてやる」
短剣にはきらきらしい飾りが施されており、子供が見ても高いものだと分かる程度には高価な代物だった。それをまるで小枝でも投げるかの様に大地に投げ捨てて、男は声を掛けた。
「今の我らにこの街の民全てを弔う事は出来ん。故に、代わりにそれをくれてやる。母の髪でも形見に逃げるもよし、それを売り払い当座の命を繋ぐに充てるもよし、はたまたそれで仇を討つか、自ら母と同じ場所へ逝くもよし…好きにするが良い」
余りに冷たい言葉だった。
街の大人は皆優しかったのに、同国の者であろう男は酷く冷淡で残酷な言葉を口にする。
イーリアスは顔をあげ、感情の抜け落ちた瞳で男を見上げる。
浅黒く日焼けした肌に炎の様な赤毛の大男だった。
獰猛な獣を思わせる琥珀の瞳はギラギラと強い光を放ち、街の大人たちよりも遥かに鍛えあげられた鋼の様な肉体を簡素な鎧に押し包み馬上からこちらを睥睨する姿は、まるで彼こそが死を招く獣であるかの如き印象を受ける。
「俺はこれから奴らを追わねばならぬ。敵に追い付き、追い詰め、皆殺す。貴様の母の仇とやらは恐らくそこで、死の竜に喰われるだろう」
死の竜。
それは死神たちを統べる世界の死そのものだと言う。
“終わりの竜”とも呼ばれる伝説の竜は、かつて主神ラディウスに逆らい、この世界を追放された。それでも負の長たる竜の力は強く、今尚、この世界に死や破滅が蔓延るのはかつてラディウスに遠ざけられたかの邪竜の呪いだと人々の間には伝わっている。
その竜の元に、敵兵どもを送るのだと語る男にイーリアスは縋る事が出来なかった。
今の自分では母の仇は討てない。けれど、この人ならばそれを成してくれるのではないか。ならば縋って足留めするべきではない。
幼心にそう思った。
余りに突然の事で、怒りも憎しみも追い付かない。悲しみさえも何処か遠くに感じる様な死んだ目で見上げていると男は興味を失ったのか、ばさりと外套を払うと馬頭を巡らせイーリアスに背を向けるも、何を思ったかふと口を開いた。
「この世は全て、弱肉強食。貴様の母は弱かった。だから喰われたのだ」
母を失ったばかりの幼子に掛けるべき言葉ではない。だが男は構わずイーリアスに言葉を投げ続けた。
「これこそ事実、これこそが現実だ。喰われたくなくば強くなれ、小僧」
ちらりと一瞥をくれ、低く残酷な言葉を吐き散らす男はあまりに無慈悲。だがその口から出る言葉はーー今のイーリアスには難し過ぎて意味こそ理解出来なかったがーー何故だかストンと胸の中に落ちてくる。
「人生は一度きり。死ねば終わりだ。なればこそ、誰よりも強く、しぶとく、傲慢に、己が欲望に忠実に生きよ」
それだけ言い残すと、男は来た時と同じく風の様に去っていった。
後には母の遺体の傍らに茫然自失で短剣を抱える幼いイーリアス1人を残して。
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