夜中の悪魔

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堀由美は今、あるものと戦っている。 それは食欲だ。 抑えようと、我慢しようと思っても湧いてくる食欲。 それは健康診断前夜の由美にとって悪魔と等しい存在だった。 大学を卒業して、電力会社の事務員として働く由美は世間から見るとぽっちゃりと呼ばれる体型だった。小学校、中学校では痩せすぎていた体型がいつの間にか高校に入り、大学を卒業する頃には身長が155cmと平均的なのに対して体重は61kgにまで増えていた。就職を機に、55kgまで減量することを目標としてダイエットをしてみたものの典型的な三日坊主で終了。今回こそはと2週間前から実行したダイエットは何とか続けることが出来たものの500gしか減っていなかった。 今日を乗り切ればと考えて晩御飯の豚カツを横目に必死にサラダを口に運んだ。それからお風呂に入り、髪を乾かし、就寝しようと自分の部屋に向かっていた時に奴がやってきたのだ。最初は下腹部の違和感だった。何か気持ち悪いものがうごめいているような感覚があった。それが空腹感だと気付いたのは布団に入って少し眠気を感じ始めた頃だ。さっさと忘れて寝ようと思ってもこの悪魔がなかなかに睡眠を妨害するものだから由美は徐々に腹が立ってきた。腹が立つとまた眠気が飛び、空腹感が増すという地獄のループに陥ってしまった。これも悪魔の仕業なのだろうか、私がこれまでやってきた努力を無駄にするわけにはいかないと奮起し悪魔に対抗しようとする。そうこうしているうちにいつの間にか時間は過ぎ、ベッドに入る時は午前0時30分ほどを指していた長針は1の目盛りまで進んでいた。 「大丈夫、これまで私がやってきたダイエットを思い出せ。これぐらい余裕じゃない。明日を超えればご飯をたくさん食べても良くなるのよ、少しは我慢できるでしょう」 とひたすら自分に語り掛けて、自己暗示にかけるという行為を続けていた。しかし同じことを続けるということは空腹でメンタルが壊れ始めている由美にとってハードな事だった。次第に声も小さくなり、ついにベッドから起き上がってしまった。一種の催眠状態にかかっている由美は頭の中で起こっている天使と悪魔の戦いをただ傍観していた。 悪魔 「これまで充分、食欲を抑えて頑張ってダイエットしてきたじゃねぇか。てことは今回の健康診断で体重が変わってなくても、次の健康診断で本格的にダイエットして痩せられるってことだよ。そもそも今日食べたからといって明日の体重が確実に太るわけじゃない。だから今は無理して痩せるより、欲望に従順になった方がお前のためなんだよ。」 天使 「あなたは何のために頑張ってきたの。今回の健康診断で100gでも痩せるためでしょ。‘’次に次に’’って言って結局痩せられなかったのはあなたよ。だから悪魔の声に耳を傾けてはだめ。きっと後悔することになるわよ。」 頭の中でお互いの声が反芻する。何度もバトルが繰り広‵げられていて、国会の答弁を思い出す。‵とりあえず一旦寝よう、もしかしたら眠れるかもしれない。’と疲弊しきった頭脳を駆使して正常な判断を行おうと試みる。起き上がっていた体を横にして、布団を頭から被る。 「空腹の事は忘れる。空腹の事は忘れる。空腹の事は忘れる。」 と繰り返し呟いて自己暗示をかける。ふと時計を見ると、ちょうど2の針に短針が辿り着くところだった。いつもなら恐ろしい睡魔に襲われているであろう時間帯だが今は別の悪魔との戦いに集中出ねばと気合いを入れる。お腹を叩いてこれまでのダイエットの失敗談を思い出す。今まで1gたりとも痩せるのに成功したことはなかったし、我慢することがとても嫌いだった。でも今の自分は少し違う。500ℊも痩せることが出来たのだ。もし、過去の自分をゼロとするなら今はイチの存在に進化したようなものだ。ゼロとイチは驚くほど違う中学校の美術で習ったことだ。昔の自分と今の自分を比較するのに少しの間気を奪われていたことに気付く。壁にかけているモダンな白黒の時計がチクタクとなっているせいか抒情的な記憶の中に捕らわれていた。そんな感傷に浸りながら、優しく目を閉じてみる。瞼の中に優しい記憶が投射される。そうしてうつらうつらと夢の中に誘われ―――――― る訳もなく、由美の眼は開ききっていた。 「全く眠れない。」 由美はベッドの中でじたばたして出来るだけ身体的な疲労を与えようとする。しかし眠らなけらばならないという感情がどうしても頭の中にあふれてきてしまい、結果として焦燥してしまう。人間はあることを忘れて考えようとすればするほど、そのことを考えてしまうという心理的法則があるらしい。だから眠れない時や体を緊張させないようにしたいときは逆に力を一気に加えてみると良いらしい。そんな法則を全く知らない由美は負のループが再発していた。眠れないー焦るー時間が経つとお腹が空くーという数学で既視感のある形だ。布団に包まれていた体は焦燥感で火照り、布団を蹴とばし苦しんだ様子で就寝しようとする。先程までは心地よかった時計の進む音も今となっては焦りを肥大化させるための立派な餌になってしまっている。由美の悲痛な心の叫び声はどうしようもなく心の中に沈殿し、食欲の悪魔として再び舞い戻る。 「だめだ、だめだ。これまでの自分とは違うんだ。」 と問いかけるも焼け石に水でどうしようもならない。 由美はいつの間にか立ち上がって、ドアを開けようとしていた。今の自分から過去の自分へと繋がる最後の扉である。ぼーっとしながらドアを開けようとしたため肘を蝶番の辺りにぶつけそうになる。大きな音を立てまいと小さく、身体を滑らせるようにしてくぐり抜ける。深夜と呼ばれる時間ももう過ぎて、すっかり冷たくなった廊下の床を踏みしめながら、キッチンへと向かう。電子レンジの横にあるかごにはパンとお菓子が入っている。巣穴を貪るクマのようにガサガサと好みのお菓子を探す。由美が大好きなスナック菓子で醤油味のお菓子が見つかったため、早速ダイニングテーブルで開封しようとハサミを取り出して隣のダイニングルームに移動する。すると突然廊下の方から、‵ぴたっぴたっ’という足音が聞こえる。何者だと身構えたが、薄いピンクのパジャマに身を包んだ母親だった。 「あら、由美起きてたの。今からお菓子を食べるの?あんなにご飯我慢してたじゃない。もう食べて大丈夫なの。」 お母さんの言葉を聞いて心に埋もれていた罪悪感が目を覚ます。そうだ、お母さんにもお父さんにも宣言したダイエットなのにこんなに早く負けちゃうんだ。と心にぽっかりと浮かぶ。由美はどうしていいか分からず少し戸惑いながら頷く。由美の困った様子を見て 「いいのよ、別に。いっぱい食べて大きく育ちなさい。もともとあんたはめちゃくちゃ痩せてて本当に子どもの頃は心配してたんだから、大きく育つことには全く問題ないのよ。むしろ大きく育ってくれてうれしいわ。」 お母さんの温かい言葉で由美の胸はいっぱいになった。‵食べることよりももっと優先するべきことがあったんだな。’いつの間にか母親の温かさに包まれていた。何とも言えない幸福感で、泣き虫だった小学生の頃に戻ったようで由美は泣きそうになっていた。親子の間で結ばれた絆がいつまでも紡がれていた。そんな二人を見守るように窓から見える山の斜面から太陽が煌々と現れていた。
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