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 青年――黒紅の口から、情けなく焦った声が零れる。内心で駆け抜ける動揺が、包み隠さず垂れ流される。それらを吐き出した事で、多少の落ち着きを取り戻した事もあり気づいた。自身の額と、鼻先が妙にむずむずとこそばゆい。この初対面から距離の詰め方がおかしい人物は、反対側から超至近距離で、自分を覗き込んでいるのだろう。口を開いた時に漏れ出た、冷たい呼吸の感触が額に残っている。黒紅の鼻先を、前髪がさらさらと撫でる。 「黒紅だな」 「待て。さすがに近すぎるだろ」  寝台で仰向けになった姿勢のまま、両手を持ち上げる。そして、女型か男型か分からないが、無礼な事だけは分かるその人物の頭をがしりと掴んで引き離す。反撃に出られるとは微塵にも思っていなかったのか、びくりと身体が跳ねた気配がした。 「無礼な奴め」  そう大仰に顔を顰め、吐き捨てるのが聞こえた。 「無礼なのは、きみの方だろ……」 「黒紅は確かに俺だけど」黒紅は言いながら、眠気眼をごしごしと擦りつつ、寝台の上で居住まいを正す。  ぎしり、と寝台の脚が軋む嫌な音がした。しかし、黒紅は気にも留めず、未だに眼を擦りながら横目で、件の人物を不満気に睨みつける。 「それで、俺の睡眠を邪魔した無礼なきみはさ、誰な訳?」 「……瑠璃(るり)は瑠璃だ」  「無礼」と、繰り返し呼ばれたのが気に障ったのだろうか。先程まで単調だった声に、初めて不満と不快と云った感情の色が混じる。  肩よりも上で切りそろえられ、丁寧に梳かれた黒髪と、服の上からでも分かる線の細さは女型のように感じる。だが、表情の動かし方や仕草が、その神経質な繊細さにあっていない。そのような雑な所が、男の持つ妙ないい加減さに通ずる気がしないでもない。 ――まあ、どっちでもいい。   腕を組みながら、こつこつと、踵の高い靴を鳴らす姿は苛立ちを隠せていない様子だ。不満気に此方を見ているが、自分から口を開く気配はない。どうやら、黒紅の返答を待っているようである。 「聞いたことがないな……。まあ、自分の所属先の人間以外知らないのが普通か」 こちらを睨め付ける瑠璃に、特に臆した様子もなく黒紅は答える。「知らないのか」と云う風にきょとんと表情が変わる瑠璃。澄ました見た目と口調に反して、感情豊かなのかもしれない。 しかし、今は質問したい事や言いたい事が山程あるのだ。瑠璃の一挙手一動に、一々心を動かしている暇はない。 『瑠璃は瑠璃って言うけどそれじゃ分からないんだけど』『所属史と階級は?』『どうやって部屋に入ってきたんだ』『出勤前に何で叩き起こされないと駄目な訳?』『俺が起きるまでずっと寝顔を視てたのか、まさかな』―― ぐるぐると、頭の中では喋ろうとする内容が次から次へと溢れ出る。 「あまりそのように眼を擦るな、黒紅。司書の奴らは、私達のこの眼がお気に入りなのだから。壊れたらどうするんだ」  黒紅が口を開く前に、瑠璃から咎めるような声が飛んできた。
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