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弐
宿舎の廊下は静まり返っていた。始業時間はもうとうに過ぎている。当たり前といえば当たり前だが、思い返せばここの廊下で誰かと出会ったことなど皆無に近い。それも職員ではなく、先程のように身の回りの世話をしてくれる女中や下男たちだけだ。
長い廊下の壁にずらりと掛かっている銀のプレート。其処に振られた部屋番号。その何れに住まう誰とも、自分はここに来て以来あったことはないと思う。いや、正確には『娯楽施設』などで顔を合わせているのかもしれないが、そもそもここにいる職員たちは基本他人に無関心なので自身の班や史以外の者や司書達以外と会話をすることなどない。
黒紅は、中庭を隔てた対岸の廊下を視遣る。
向こう側の部屋は丁度上下から数えて真ん中だから、黒紅がいる廊下は中階程だろう。深紅の上質なカーペットを踏みしめ前方に数歩。大理石の手すりへと何となく手を掛ける。
向こう側の廊下が見える。此方と同じく血の様に赤いロングカーペットの上で、女中や下男が掃除をしている姿。全身が真っ黒色の装束なため、こちらから見ると影がもぞもぞとうごめいているようである。
暫くぼんやりと眺めているとその影法師たちは、掃除が一通り終わったのか一斉に左右の廊下の端にある白い扉へと歩を進める。どこからか鍵束を取り出し、差し込み、回す。入る。すると、先程の人物たちが一つ上の階へと移動したのが見えた。
そう、この宿舎には「階段」というものが存在しない。全て黒紅や彼らが持っている鍵束で部屋や階を移動するのだ。
黒紅は「階段」というものを実際に使ったことがない。視た事はあるのだが。休日に、「建築史」の書物庫へと行き、はて「階段」というものはどういうものだろうか、と思い視てみた。
結論を述べると、「面倒な建築物」という印象を抱いた。これを使って、一々上階と下階を行き来するのを考えると煩わしくないのだろうか、と思う。「こんなもの使わず、鍵を使えば良いのにな」と一緒に視ていた同僚に言うと「馬鹿、人間達は俺たちみたいに「鍵」を持たないんだよ」と一蹴され、それもそうか、と納得したのだった。それと同時に、自分はまだまだ人間達について彼らの生活空間や食事、服飾の嗜好などについて知らない事だらけだと痛感した。
まあ、だからなのだろう。自分達、職員達が「人間」について深く知るためにこのように本来必要でないにも関わらず、鍵を使って行く事の出来る娯楽施設で遊戯を学んだり、時にはカフエというもので甘味に舌鼓を打つのだ。そうして、彼らの生態を知っていく。
何故、彼らはこれらを生み出したのか。生み出さなければならなかったのか。
それらを知って、自分のものとするために。仕事で生かすために。
自分達、図書館職員は知らなければならないのだ。
眼下の中庭に視線を向ける。
上空から差し込む光を受け、植物やそこで微睡む『レプリカ』の動物たちが穏やかに息をしている。
(あれは……桜か)
植物史での仕事で、さんざん世話をしてやったのをよく覚えている。
芝生で丸まっていた黒猫は、降り注ぐ花びらが気になるのか、もこもことした両手を不器用に振り回しながらそれらとじゃれている。人間達は桜の下で桜を愛でながら宴を開く種類もあるときく。恐らく、それを真似しようと職員のだれかが今日か明日にでも班員らで花見でもするのだろうなと思う。
(昨日まで桃の木だったが、そうか。もう卯月か)
「ということは、来月でこの桜も視納め、か。……来月は何という木が花を結ぶんだろう。あとで代理にでも聞いてみるか」
そう独りごちると、黒紅はくるりと背を翻し、廊下の奥にある木製の扉へ向かう。
背後で桜が待ったのか、黒紅の腰紐からぶら下がる銀の鍵束に一片、白く仄かに桃色を帯びた花弁が当たるとカーペットへ落ち、吸い込まれるように消えた。
「所詮レプリカだ」
全て真似事。紛い物。
ここでの生活も、暦も、時間も、なんだって。
人間を知るためにやっているだけで、本来なら必要のない、空虚なおままごと。いつかあの花弁のように消えるまで、自分達職員は、ここでそうやって偽物を演じるだけなのだ。
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