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堅物な雰囲気を漂わせた『館長代理』と呼ばれた端正な面持ちの男は、それに反した温かみを感じる声音で黒紅を慰める。その長身を包むシャツとストライプの小洒落たスーツからは、ふわりと桜の香が漂う。
昨日会った時は、桃の香がした。月によって変える彼のこの香が、黒紅は密かに楽しみであり、好ましく思っていた。それは黒紅が植物史であらゆる植物を扱い馴染み深かった事もあるが、それ以上に、自分と異なり自然に人間らしい趣味を嗜む彼に上司として好感と尊敬を抱いているからである。
「あはは、君の苦労は既に耳に入っているよ。あの方も決して悪気があって君に伝え忘れていた訳じゃないさ。その証拠に、特例として始業開始時刻を弐刻後ろ倒しにしてくれたじゃないか」
「まあ、それはそうですけど……。それ以外に、瑠璃――人物史だっけ? 人物史の瑠璃が俺の寝込みを襲いやがって貴重な俺の『もおにんぐるうてぃん」が崩れたんですよ。俺は眼が覚めて、光を広げる前にまずぼーっと寝台の上で微睡む、あの瞬間が好きなんです。なのにあいつが……」
「まあまあ。積もる話は休憩時間か君の就業後にでも聞くさ。まずは黒板をご覧なさい」
図書館……書物庫入口大扉。その横。
黒板に赤いチョークで『絶対見てね!!!』とデカデカと書かれ、その矢印の先に紙が張り出されている。
「ん……、なになに」
黒紅はその黒々とした瞳を細め、紙に顔を近づけ、そして――。
「うっっっっわ……最悪だ……。はぁ~~~。しかも植物史から人物史……。おまけに三級って。一番下の階級じゃないか。――代理、俺、今から司書長に抗議してきます」
「まあ待ちなさい」
「待ちません」
そのまま鍵を使わずに扉を突き破らんとする黒紅の首根っこを、黒紅よりも頭一つ分高い館長代理が引っ掴む。それでも前に行こうとする黒紅であったが、その身体は微動だにしない。館長代理の圧倒的な腕力で微塵も動くことができないのだ。
黒紅が憤慨した一枚の紙。其処にはこのように達筆な筆で書かれていた。
『人事異動のお知らせ
卯月壱日付で、左記の通り人事異動を行いましたのでお知らせ致します。
記
壱、 人事異動
実施日 卯月壱日付
【名】黒紅
【新所属】…極東支部 人物史 第捌班 黒
【旧所属】…極東支部 植物史 ハ行科 第弐班 壱級薄青
又、科については追って担当司書に尋ねる事。
以上
極東支部 司書課』
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