一  章

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一  章

㈠    瀟洒(しょうしゃ)な洋館の玄関から出てきた金髪の巻毛に、フロックコートを身に着けた男、風切(かざきり)出帆(いずほ)は空を見上げた。  青々とした空が広がっている。  柔らかに頬を撫でる風に、深い掘りの奥にある碧眼を細めた。風切は帽子を目深にかぶり、小さな庭を横切って、悠然と門を出た。  門前には、いつもの朝と同じように、二頭立ての箱馬車と御者が待機している。 「おはよう。いい天気だな」 「おはようございます。本日も学校まででよろしかったですか」 「ああ」と御者に返事をして、足場に足をかけ、背を屈めて乗り込む。  自邸前を出発し、町屋の並ぶ通りに出た。この通りが、職場である女学院への通勤経路である。  窓から通りを覗くと、丁度、大勢の客を抱え込んだ乗合馬車とすれ違った。大通りの両端には、忙しく歩く町人の姿。  馬車で一区画ほど走行した時、馬の前方を、着物姿の男が横切ったのが目に入った。男は小走りで路地に入っていく。その男の他にも数人が、その路地に吸い込まれていった。  気になった風切は、通りに停車させる。この場で待つよう言いつけ、馬車から降りて、人の流れの後をついていく。  男が向かう先は袋小路になっており、人だかりがあった。  着物姿の男女、学生服の少年、メモを取る中折れ帽の男。  風切は人だかりに割り込んでいき、中心あたりから人々の視線の先を窺った。衆目を集めていたのは、警官が取り囲む、うつ伏せた男の死骸(しがい)だった。男の顔は横向きになっており、目が見開かれているのが分かる。死骸の周囲の地面はどす黒く染まっており、人だかり一列目の足許辺りに、血煙(ちけむり)が飛んだような黒い斑点があった。どうやら、この場で殺害されたようだ。 「———逃げる間もなかったみたいやな」  隣から関西訛りの軽い声がして、視線を向ける。男はサングラスに羽織と着物を若干崩して着こなす男。名を、志波(しば)一雅(かずまさ)と云う。風切は視線を戻した。 「あれは、田村屋の(せがれ)だな」 「呉服屋やったか。よう女騙してたらしいで。その内殺されるやろな思てたから、驚かんわ」 「女の怨みとは思えないが」 「分からんで。昔な、俺も別れた女に……」 「お前の話はいい」 「なんでやねん。少しは聞けや」  その時、警官が死骸を仰臥(ぎょうが)させた。周囲から、小さく悲鳴が上がる。着物の全面は黒く濡れており、着物は右肩から左腰に斜めに斬り裂かれていた。「今時、刀なんて」と囁き合う声が聞こえる。 「右利きか。見事やな」 「袈裟斬(けさぎ)り、一太刀、か。表情から察するに、想定外だったようだ」 「顔見知りが化けたか」 「さあな。———まあとにかく、俺は仕事へ行く。じゃあな」  志波はサングラスの下から風切を見る。 「仕事ねぇ。ええなあ、女学校の教師とか。羨ましいわ」 「だろ?」と風切はにやりと笑んで、踵を返した。
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