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陸軍大学校にやってきた志波は、門前で立ち尽くしていた。
小幡譲三の事件を調べているので話を聞きたいと伝えたところ、約束がないならば駄目だとして門衛に追い出されたのだ。
「ケチなやっちゃな!」
悪態をつく志波を、門衛はにやにやと見ている。その態度に憤慨して「覚えとけよ!」と捨て台詞を残し、地面に唾を吐きかけてから立ち去った。
大通りに出て、俥に乗ろうとした志波は、馬車から降りる月子を目撃した。洋装の中年女性と使用人らしき女と、どこかへ向かって歩いている。生来の旺盛な好奇心に突き動かされ、志波は乗ろうとしていた俥を断り、小走りで後を追った。
氷川母娘はバロック建築の大越呉服店に入っていく。後を追って、志波も入店した。
店内のメイン通路の両側には、洋服が積み上がった棚が並んでいる。その通路は店内をぐるりと一巡していた。
志波は客に紛れながら、月子達の後をつける。一行は、ドレスが置いてある区画で足を止めた。暫くして、店の者がやってくる。何事かを話した後、他の場所へ移動した。移動した先で、アールヌーボ様式のドレスを見ている。
志波はドレスのことは詳しくない、というか全く分からないが、値が張るだろうことだけは分かった。それにしても、先程から母親の方は興奮気味に買い物を楽しんでいるにも関わらず、月子は淡々と母の後をついていくだけだ。移動以外は、ただぼんやりと突っ立っているだけで動きもない。温度差激しすぎるやろ、と内心つっこみを入れていた。
月子達は呉服店を三巡し、ようやく購入して呉服店を出た。志波は懐中時計を見る。二時間が経っていた。げんなりしながら、三人を追って呉服屋を出た時、目の前に男が立ちはだかった。
灰褐色の髪に、柔和な目つき。大島の羽織と着物を身につけた男は、口許に笑みを浮かべていた。志波は怪訝な目つきで男を睨めつける。
「どけや」
男は、にっこりと笑み、
「志波一雅さん、ですね?」
と言った。志波は瞠目する。
「……誰や?」
「名乗るほどの者じゃありません。ただ、尾行するのは、やめていただきたいと伝えに来ただけです」
志波は驚愕し、遠くを歩く月子達を一瞥する。男は頷き、
「そう、あの方々です」
と言って笑む。志波は開き直って、腕を組み、ぶっきらぼうに言った。
「ええで。その代わり、つき合うてや」
「何にです?」
「ゲームや。まずは、あんたが誰か当てんねん」
「僕は、ただの使用人ですよ」
志波は口端を引き上げる。
「冗談言うなや」
「冗談じゃなく、本当に使用人です」
「じゃあ、腰に持ってるのは何やねん」
腰に差してある拳銃を顎で指すが、男は表情を崩さない。
「ああ、これは護身用です。物騒でしょ、最近」
「答える気、なしか。じゃあ、次。なんで俺の名前を知ってんねん」
「それは、お嬢様がたを、あなたが尾行してるから、ですね」
「煙に巻く気か?」
「そんなつもりはないですが。あなた、勘がよさそうなのでね。あなたのように聡い人は迷惑なんですよ。だから調べました」
「見る目はあるみたいやな」と、志波は油断なく男を観察する。
「あんた、名前は」
「名乗らなきゃダメですか?」
「自分の名前知られてんのに、相手の名前知らんのは気持ち悪いやろ」
「やっぱり、こうなりますよねぇ……。———僕は、蒼次郎と云います」
蒼次郎は渋々といった様子で名乗る。
「蒼次郎、ね。今度取材さしてや」
言うと、蒼次郎は軽く笑う。
「抜け目ないですねぇ。やっぱり、調べておいて正解でした」
でも、と蒼次郎は続けた。
「取材はお断りしますよ。———じゃあ、僕はそろそろ失礼します。忠告はしましたからね」
蒼次郎は踵を返し、人混みに消えた。
「忠告はしました、ね……」
志波の口許に愉悦が浮かんだ。
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