52人が本棚に入れています
本棚に追加
㈢
木製の机が並べられた無機質な部屋で、男達が黙々と仕事をこなしている。ここは右京の職場である、大蔵省主税局本部だ。
帝国大学卒業後、玄蔵の勧めで、右京は大蔵省への入省を決めた。銀時計組だった右京は、花形の主税局本部に配属された。
右京は、同課の者達が、ぱらぱらと席を立ち始めたのを見て、銀の懐中時計を確認した。針は十五時を回っている。右京が帰り支度を始めると、同期の藤木祐輔が近づいてくる。
藤木とのつき合いは古い。十代の藤木は勉学に秀でた少年だったが、家が貧しく勉学に集中することが困難だった。藤木の頭脳を見込んだ右京は、誠意を以て資金援助を申し出た。その彼は、清涼感のある男に成長した。そして藤木もまた大蔵省に入省し、主税局配属となったのである。
「右京、帰りに一杯やってかないか」
右京は少し考え、そうだな、と返した。
大蔵省から十五分ほど歩いたところに、洋風居酒屋があった。店主がアメリカの店を真似て建てたそうだ。本省から近いため、同僚や上官をよく見かける。
二人は座敷に上がり、テーブルの前に座り込んだ。コートを脱ぎながら、ビールを注文する。暫くして、黄金色に染まったグラスが運ばれてきた。グラスを軽く持ち上げて、二人は同時に口をつける。ほのかな苦みが口に広がった。満悦した藤木が口を開く。
「そういえば、知ってるか。三年前の、貨客船難破事故の詳細」
「西見造船の貨客船が、アメリカへ向かう途中で、嵐に遭遇して難破したとしか知らないが」
藤木は、実は、と声を潜める。
「税関の友人から聞いたんだが、その船から、ないはずの物が出てきたらしい」
「というと?」
「死体だよ」
右京は眉を顰めた。
「どういうことだ」
「調査船が、難破した船を発見した時、散らばった舟木に手枷を嵌めた死体が引っかかってたらしい」
「それって、まさか……」
藤木は、ああ、と渋い表情で頷く。
「奴隷を運搬してたんじゃないかって話だ」
右京の顔が不快に歪む。
「西見が?」
「ああ」と、藤木は苦々しい表情でグラスを煽る。
西見造船会社と鷹司家は、交流があった。現在の西見造船代表は、西見一郎である。長男、太郎と右京は、年齢が近いために、何かと顔を合わせることが多かった。
「西見は、知ってるのか」
「知っててもおかしくはないだろ。と言っても、俺も自分の目で見たわけじゃないから、又聞きしたのを鵜呑みにして、西見に問い質すなんてことはしないが」
「藤木、西見には安易に近づくなよ」
「お前はつき合いあるだろ」
「毎年挨拶はするが、それだけだ。俺より、月子の方が交流があるようだ」
右京はグラスを傾ける。藤木は右京を窺いながら訊ねた。
「お前、局長からの縁談を断ったらしいな」
「ああ」と、事も無げに言う右京に、藤木は笑う。
「そんなに月子がいいか」
右京は口許に柔和な笑みを浮かべ、
「お前には分からないさ」
と言う。藤木は肩を竦めた。
「ああ、確かにな」
「まあ、分かってもらっても困るが」
「心配するな。お前が入れあげてることは、本部のみんなが知ってる」
藤木の冗談だが、右京は片眉を引き上げ、「願ってもない」と得意げに返す。それに、と藤木は続けた。
「お前には、頭上がんねぇしな」
右京は、違う、と返す。
「今のお前があるのは、お前の努力の結果だ。それ以外にはない」
藤木は「どうも」と笑った。
「ところでさ、なんで西見と月子は交流があるわけ」
「月子というより、氷川としてつき合いがあるようだ」
「ふうん。お前、心配じゃないの」
「何を心配するんだ」
「その自信、どこから出てくるんだよ」
「西見と月子は、ないだろ」
西見太郎は、威圧的で素行が悪く、問題の多い男だった。その太郎が、女性を物のように扱っている光景を、右京は何度か見ている。
「そういや去年さ、食事会に呼ばれただろ。その時、あいつ、月子から完全に無視されててさ。見てて怖かったが、西見が怒り出さなかったのは不思議だった」
「へえ?知らなかった」と、右京は笑う。
「笑えたけどな。しかし、月子じゃなかったら、大変なことになってたと思うぞ。あいつは、月子のバックにいる、お前が怖かったんだろうな」
右京は、不敵な笑みを浮かべて、グラスのビールを飲み干した。
最初のコメントを投稿しよう!