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緊張の絶えない状況に疲れて、早く帰りたいと考えていると、声をかけられた。
「氷川さん」
視線を向けると、歩み寄ってきたのは風切だった。月子は両手でスカートの裾を持ち、お辞儀をする。風切も優雅な振る舞いで挨拶を返した。
「ドレスお似合いですね。見違えて、分かりませんでした」
「ありがとうございます。風切先生は、なぜこちらに?」
「外国人招待客の枠で呼んでいただきましたが、実際は通訳です。仕事みたいなものですよ」
そうですか、と月子は澪子の方を見る。澪子は訝しげな顔で、こちらを窺っていた。その表情に背筋がぴりっとする。
風切が視線の先を追った。
「お母様でいらっしゃいますか」
「はい。母の澪子です」
「ご挨拶させていただいても?」
「……ええ。大丈夫だと思います」
風切は不思議そうにする。
曲が終わると、澪子が近づいてきた。上品な笑みを浮かべ、澪子は風切に挨拶をする。風切は自己紹介をした。教師だと分かった途端、澪子の興味が削げる。だが風切は礼儀正しい。
「よろしければ、お嬢様と踊らせていただけませんか」
あら、と澪子は月子を冷たく見る。
「よければ、お願いしますわ。無作法な娘ですが」
月子は俯いた。風切はちらりと月子を窺う。
「ありがとうございます。———月子さん、参りましょう」
風切が月子に手を差し出す。風切の手に手を重ね、中央に進み出た。
月子は風切と瞳を合わせる。彼の碧い瞳は近くで見ると、きらきらとしていて美しかった。
「ダンスはお得意だとか」
「成績はよかったと思います」
風切は、おかしそうに笑う。
「それは素晴らしい」
風切の左手が背中に回る。月子は風切の左上腕に手を添えた。そして右手を組み合わせる。
ワルツが響き渡る。左足、右足、ターン。
風切は、うまく月子に合わせていた。月子は、風切の碧い瞳を見つめながら、ステップを踏む。見つめていると、空の中にいるような気分がした。
空の中を泳ぐ自分を、うっとりと想像する。空想に浸っていると、風切に体を引き寄せられた。どうやら体勢が崩れていたらしい。
「申し訳ありません。ぼうっとして……」
「踊りながらぼうっとできるなんて、器用な人ですね」
風切は面白そうにする。
「月子さん、訊いてもいいですか」
ステップを踏みながら、風切は言う。
「なんでしょう」
「もう治ってはいるようですが、首の傷は、どうしましたか」
あくまで心配そうな眼差しから、月子は視線を逸らす。
「枝に引っかかっただけです。どうぞ、お気遣いなく」
「話したくなければ、それで構いません」
月子が再び風切を見上げると、風切は微笑み返す。
「———先生の瞳は、美しいですね」
「ありがとうございます。日本で、そう言ってくれたのは、月子さんが初めてです」
「そうですか。先生も、苦労なさったのですね」
「も……?」と風切は不思議そうにする。月子は気まずそうにした。
「いえ、気にしないでください」
「何か、お困りごとでも?」
いいえ、と月子は小さく返す。
「そうですか。でも、いつでも相談に乗りますよ。どうか覚えておいてください」
月子は風切を見つめ、
「……はい」
と答えた。
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