一  章

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 書斎に戻った右京は、執務机の椅子に腰かけ、大きく息を吐いた。  書斎は入口を入って左の壁に、天井までの高い書棚を設置しており、そこには和書と洋書が並んでいる。正面の執務机の背面側には、格子窓。右手側には、革張りのソファとコーヒーテーブルが配置されていた。  オーク材の机の抽斗(ひきだし)から実母、時子(ときこ)の写真を取り出す。  写真には、微笑む時子が写っていた。時子は人づきあいがうまく、人情に厚い女性だった。そんな母から、人には良くするようにと言われて育った。しかし、ある日突然、右京は母を失う。ある朝、良枝から、母の水死体が見つかったと告げられたのだ。右京が十七歳の時だった。  右京は母の写真を抽斗に丁寧にしまう。そして机上の手紙に視線を落とした。数日前、兄の真美がアメリカから送って来たのだ。真美は現在、父である玄蔵(げんぞう)の命令によりアメリカで金融業を学んでいる。右京は椅子から立ち上がり、ドアを開けて良枝を呼んだ。やってきた良枝に、月子に電話をかけるよう命じる。良枝は速足で一階に降りていく。  右京は襟元を緩めながら、ゆったりと階段を降りる。丁度、艶子が上がってくるところだった。艶子と目が合う。すると艶子の視線が、右京の開襟した胸元に移った。それから艶子は右京をちらりと見て、足早に階段を上って行った。艶子を見送った右京の耳に「つながりました」と良枝の声が届く。  右京は電話室へ向かった。良枝が電話室で待っている。やってきた右京に「蒼次郎(そうじろう)殿です」と良枝は伝え、受話器を手渡す。右京は電話室に入り、ドアを閉めた。片手をポケットに入れ、壁に寄りかかる。 「蒼次郎、月子はいるか」 『おりますが、今はちょっと……』 「何かあったのか」 『いえ。澪子(れいこ)様とお話されています』  右京は一瞬閉口した。 「……月子は、大丈夫か」  電話の向こうから溜息が聞こえる。 『お嬢様は顔色を変えませんから、なんとも……』  右京は溜息を落とす。 「やはり、母君には私から話をした方がよかったか」 『右京様がお話されても変わらなかったかと』 「そうか……。分かっていれば、別邸を用意させたのだが」 『お気遣いありがとうございます。お嬢様にそのようにお伝えさせていただきます。———あっ……!お嬢様、大丈夫ですかっ』 「どうした?」 『いや、廊下に蹴り出されたようで……。右京様、すみません、失礼させていただきます』 「ああ、分かった」  受話器を置いた右京は、深く息を吐いた。また母親から責められているのかと思うと、月子が不憫(ふびん)でならなかった。できることなら、月子とあの母を引き離したい。だが氷川家に関しては、艶子が強固に反対しており、玄蔵は態度を保留していた。だが右京は、結婚する相手は月子と心に決めている。  右京の四つ上で真美と同級の月子は、幼少より他の女と違っていた。それは、月子が早くに父親を亡くしたことが理由かもしれない。だからなのか月子は十代の頃から、年頃らしい感情の揺れがなく、いつもひっそりと静かだった。その静かさが、右京には強さに見えた。———そういえば、あの頃から月子の姿は変わらない。
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