一  章

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㈢   受話器を置いた蒼次郎は、着物の裾を(さば)いて電話室から飛び出し、廊下に倒れている月子に駈け寄る。 「月子様、大丈夫ですか」  蒼次郎はドアが開け放たれた部屋の中に視線をやる。肩で息をする澪子が立っていた。澪子の表情は怒りに歪んでいる。月子は、むくりと起き上がり、廊下に正座した。そして両手をついて、(ひたい)を床につける。 「……どうか、お許しください」 「お前のような女が、殿方(とのがた)色目(いろめ)を遣うなんて、なんと恐ろしい……っ。お前の中に流れる薄汚い血が、そうさせるのでしょう!お前のような女が、なぜ私の家に―――っ!」  澪子は発狂して叫声(きょうせい)を上げ、月子に襲い掛かる。澪子はひれ伏す月子の髪を引っ張り、右手の爪をうなじに突き立てた。月子はなされるがまま、じっと我慢している。蒼次郎は止めようと、間に入った。 「澪子様、どうぞ、落ち着いてください……っ!」  しかし、月子のか細い声が言う。 「……蒼次郎、いい」  蒼次郎は諦め気味に手を引き、数歩下がり、正座をする。その場所から、澪子に引き()り回される月子を見守った。———いつもこうだ。月子は、澪子が何をしようとも抵抗しない。蒼次郎以外の家の者にも、手を出すなと命じていた。それでも、澪子が短刀を持ち出してきた時は、さすがに割って入った。  澪子の気が収まるまで、一時間近くかかった。澪子は気が済むと、使用人の千種(ちぐさ)を呼んで、ベットに(もぐ)り込んだ。千種は澪子のお気に入りで、澪子が眠るまで(そば)にいるのが日課だ。  月子は、無感情に閉じられたドアの前で、額をつけたままじっとしていた。首には無数のひっかき傷。蒼次郎は立ち上がり、月子の(かたわ)らに膝をついた。 「月子様、傷の手当を」 「……うん」  月子は蒼次郎に支えられながら立ち上がる。蒼次郎は月子の表情を盗み見た。伏し目がち彼女からは、何の感情も窺えない。あくまで静かだった。 *  手当てを終えた蒼次郎は、月子を二階の寝室へ送る。月子の首には包帯が巻かれている。階段を上がる月子の後姿を見つめながら、右京からの電話を伝えた。 「先程、右京様からお電話がありましたよ。色々とご心配されていました」 「そう」  一拍置いて、月子が続ける。 「……今日、五河屋に教師の風切がいた」 「そうですか。なかなか聡明な方のようで」 「あの時、風切に同席していた男がいた。あの男の素性を知りたい」 「調べておきます」  蒼次郎は寝室のドアを開ける。部屋は十畳ほどの洋室。ベットとクローゼットが備え付けられている。  この古典主義建築の屋敷には、新しいもの好きの、澪子のこだわりが詰まっていた。数字には無頓着な澪子の計画なので、建築費用も相当額だったと聞いている。その金を工面したのは、月子だ。  蒼次郎はベット脇のサイドテーブルのランプをつける。ベットに横になる月子を、蒼次郎は手伝う。布団をかけてやり、灯りを消した。
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