53人が本棚に入れています
本棚に追加
㈢
受話器を置いた蒼次郎は、着物の裾を捌いて電話室から飛び出し、廊下に倒れている月子に駈け寄る。
「月子様、大丈夫ですか」
蒼次郎はドアが開け放たれた部屋の中に視線をやる。肩で息をする澪子が立っていた。澪子の表情は怒りに歪んでいる。月子は、むくりと起き上がり、廊下に正座した。そして両手をついて、額を床につける。
「……どうか、お許しください」
「お前のような女が、殿方に色目を遣うなんて、なんと恐ろしい……っ。お前の中に流れる薄汚い血が、そうさせるのでしょう!お前のような女が、なぜ私の家に―――っ!」
澪子は発狂して叫声を上げ、月子に襲い掛かる。澪子はひれ伏す月子の髪を引っ張り、右手の爪をうなじに突き立てた。月子はなされるがまま、じっと我慢している。蒼次郎は止めようと、間に入った。
「澪子様、どうぞ、落ち着いてください……っ!」
しかし、月子のか細い声が言う。
「……蒼次郎、いい」
蒼次郎は諦め気味に手を引き、数歩下がり、正座をする。その場所から、澪子に引き摺り回される月子を見守った。———いつもこうだ。月子は、澪子が何をしようとも抵抗しない。蒼次郎以外の家の者にも、手を出すなと命じていた。それでも、澪子が短刀を持ち出してきた時は、さすがに割って入った。
澪子の気が収まるまで、一時間近くかかった。澪子は気が済むと、使用人の千種を呼んで、ベットに潜り込んだ。千種は澪子のお気に入りで、澪子が眠るまで傍にいるのが日課だ。
月子は、無感情に閉じられたドアの前で、額をつけたままじっとしていた。首には無数のひっかき傷。蒼次郎は立ち上がり、月子の傍らに膝をついた。
「月子様、傷の手当を」
「……うん」
月子は蒼次郎に支えられながら立ち上がる。蒼次郎は月子の表情を盗み見た。伏し目がち彼女からは、何の感情も窺えない。あくまで静かだった。
*
手当てを終えた蒼次郎は、月子を二階の寝室へ送る。月子の首には包帯が巻かれている。階段を上がる月子の後姿を見つめながら、右京からの電話を伝えた。
「先程、右京様からお電話がありましたよ。色々とご心配されていました」
「そう」
一拍置いて、月子が続ける。
「……今日、五河屋に教師の風切がいた」
「そうですか。なかなか聡明な方のようで」
「あの時、風切に同席していた男がいた。あの男の素性を知りたい」
「調べておきます」
蒼次郎は寝室のドアを開ける。部屋は十畳ほどの洋室。ベットとクローゼットが備え付けられている。
この古典主義建築の屋敷には、新しいもの好きの、澪子のこだわりが詰まっていた。数字には無頓着な澪子の計画なので、建築費用も相当額だったと聞いている。その金を工面したのは、月子だ。
蒼次郎はベット脇のサイドテーブルのランプをつける。ベットに横になる月子を、蒼次郎は手伝う。布団をかけてやり、灯りを消した。
最初のコメントを投稿しよう!