一  章

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㈣   志波は西洋料理店で風切と別れ、自宅の長屋に戻った。土間で下駄を脱ぎ捨て、(かまち)を踏み越え、寝室兼仕事部屋の電灯をつける。  八畳ほどの畳部屋には万年床(まんねんどこ)卓袱台(ちゃぶだい)。部屋のあちこちに本が積み上げられ、食べかすがついた食器や丸まった手紙が散乱していた。  志波は、壁付けされている書棚から、過去の自分の手帖数十冊をがばっと取り出す。過去二年分の記録だった。卓袱台の前にどかりと座り込み、卓袱台の上の物を左腕で一掃する。食器やら何やらが、ばたばたと畳に落ちるが、志波は気にも留めず、片っ端から手記に目を通していく。  確認が済んだ手帖を隣に積み上げる。十四冊が積み上がった時、志波は手を止めた。手記には「林中に男の死骸あり。陸軍大学校、武官教官、大尉、小幡(おばた)譲三(じょうぞう)。袈裟斬り、右利き」とある。志波の脳裏にその時の光景が浮かぶ。小幡も正夫同様、右肩から左腰まで斬り裂かれていた。小幡もまた、夜間に林中に呼び出され、抵抗する間も逃げる間もなく斬られたと見られていた。なぜ、少なくとも抵抗しなかったのか。小幡は剣術に秀でていたそうだ。そのため、武官教官に抜擢された。そんな男が、一太刀で殺された。犯人は、小幡を越える剣客であろう。その仮説のもと、警察は捜査に乗り出した。しかし、それはやがて行き詰まり、そしていまだ未解決のままだ。 「———犯人は、女だった……?」  そんなことは、誰も想定していなかった。当時の志波自身も(しか)り。だが田村正夫を殺害したのが女なら―――。警察も誰も、そんな仮説など、当初から排除していた。恐らく、今回も。  しかし、と志波は(あご)をさする。小幡譲三と田村正夫の接点が分からない。志波は手帖を懐に入れ、立ち上がった。
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